(2)海潟温泉90年に向けて−これまでを知ること、これからを考えること−
1927年5月に内田鹿太郎が温泉掘削に成功した時から数えて、海潟温泉は2017年に90年の節目を迎えます。様々な記録によれば、草創期の海潟温泉が成功した背景には、綿密に練られた「宣伝工作」、今でいうところのマーケティングとブランディング戦略があった、と言われています。元来農業が主産業の垂水において、金融恐慌、さらには煙草甘藷の補助金引き下げや塩田廃止、煙草工場誘致の失敗など厳しい状況が続いていた時期にあって、温泉による観光産業の可能性が見えはじめたことは大きな喜びでもあったことでしょう。
かつては「大隅半島唯一の温泉場」であった海潟温泉。現在の異なる状況下で、海潟温泉の未来をどう創っていけばよいのか。海潟地区の「これまで」を探究しながら、「これから」の可能性を探り行動してみたいと考えています。

(3)垂水高等学校90年−「垂城モデル」への道
1925年2月。町制施行して日も浅い垂水町に初の本格的な中等教育機関ができました。「垂水尋常高等小学校併設実科高等女学校」。この長い学校名称自体が、今の垂水高校のあるべき姿そのものを表現しているようにも思います。敢えて今の学校名称を使ってこの名前を「翻訳」すれば、「垂水小中学校併設高等学校」ということですから…。
当時の日本は政策的に中等高等教育の拡充を進めていました。ただし地域間格差が当時はとても激しかったので、実技系の高等女学校(今で言う女子中・高)に関しては高等小学校への併設を可能とする柔軟な方針をとりました。この制度を活用して誕生したのが垂水実科高女だった、というわけです。
戦後、新制高等学校制度の開始とともに県立移管に成功し、現在の垂高になり、現在では生徒に対する垂水市の手厚い支援も制度化され、開校以来の「『わが街』の中等教育機関」としての伝統が再び蘇っているように思います。
いろいろな過程がありながらもわたしたちの街に90年もの間存在し続けてきた垂高。この学校が歩んできた過程を、様々な「記憶」と「記録」で発信し、垂水市とともにある学校の「個性」を次の10年、すなわち100年への歩みに向けたスタートとしてはどうか、と考えています。

今のところぼちぼち始めている(あるいははじめようとしている)ことを書いてみます。
(1)「垂水空襲」と戦災復興
来年(2015年)は、戦後70年の節目にあたります。垂水市(当時は肝属郡垂水町)は1945年8月5日空襲を受け、全町戸数の33.9%、人口の43.5%が罹災しました。記録によれば、鹿児島県下各地の空襲のうち、鹿児島市に次ぐ犠牲者が出た場所でもあります。
空襲から10日後に終戦を迎えますが、垂水町(当時)は戦災復興都市の指定を受け、国や県の支援を受けながら焼け野原の再建を進めました。現在の垂水市の中央地区と呼ばれているところは、この事業によって新たに生まれた空間ということになります。
私たちが当たり前のように住んでいた(いる)場所、歩いた道路、遊んだ公園…それぞれの空間に、この70年前後の苦悩と希望の街の過程、人の姿が存在していると思います。
この時代の直接体験者がどんどん減りつつある現在、私たちが2015年に向けて継承し発信し思考すべきことは少なくない、と思います。

「温故創新」。垂水市の川井田稔元教育長が、『垂水市史料集』で使っておられた言葉です。
垂水は人口減少に歯止めがかからない、少子高齢化がどんどん進む小さな街です。しかしこれは単純な「衰退」の姿なのでしょうか。
お年寄りが多いということは、その街(空間)の記憶を広い時間的な拡がりの中に保有している「情報の集積」状況が存在する、と言うこともできます。
その「記憶」、あるいは関連する「記録」から情報を得て、心的時間旅行(メンタルタイムトラベル)を楽しみ、過去から現在や未来を思考する機会に恵まれた場で、それぞれの思考を深め高めあうことができ続ける環境にいる子どもたち。
こうした情報をインターネット空間で世界中に発信し、地球の裏側にいても瞬時に共有し交流できる社会。
「知識基盤社会」の到来は、我々を育み続けてくれた小さく静かな地域を、そのままの姿で劇的に変化させてくれる、新しい発展の姿の可能性を感じさせてくれます。
一人ひとりの何気ない「記録」や「記憶」が街を構築し、どこよりもユニークに、かつサステイナビリティとともに、育てていくかもしれない。
ここから「温故創新」を本気で楽しんでみたいと思います。
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