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COLD SLEEP COMPLEX
(造語)について

僕が勝手に決めた社会現象として捉えているんだけどいまいちなのでここに書いて置いて叩いて、鞣して貰いたい。なんだったら壊して構わない。

社会はネットの発明と発展によりオリジナルの不在が単一なき他者によってその存在を誇張されていくという現象はあちらこちらで起きている。それはBUZZるだったり、炎上、STAND ALONE COMPLEXという言葉に転用されている。
「人間が命令系統がないのに組織立った振る舞いをしてしまう心理的現象。」とも言いかえてもいい。
ただ最近起こる現象はそれよりもより複雑化して無気力な叩き合い、祭りであるとは思う。それを利用するもの、被害を受けるものは様々である。

しかし、その命令は単一の意志のある命令であるか?という問題だ。
つまりは、「命令系統に意志がないのに組織だった振る舞いをする。」
今流行の「忖度」と言い換えてもいい。そうではないのにそう伝わるし、そう伝えようともするも裏表が同時に存在する量子的命令。

心の中に暴力性があるのなら、暴力的になった方がよい。
無気力を隠そうと非暴力を口実にするよりは。
(ガンディー、インドの弁護士)

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2018/06/30
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これはもっとまとめてから出したほうがいいのだけれど、事情により早めに出す、
これは桝田さんに「対等、公平、水平を考えるなら、対等公平でないもの、垂直性を考えるべきではないか」という方向で話したものが、垂直性、神、主体自己(超越性自己?)などについて考える記述になったので、いったんここに置いておく
以下


諸井三
+1
気持ちとしてはわかるけど、たぶん「神のもとの平等」とかの基礎がないと、ある程度の知的動物の群れとしては上下ができるのはむしろ自然な流れかも、
それが良いというのではないけど、平等を作り出す基礎が無いとそれは難しいかも


諸井三
+1
民主主義というのが対等な関係、というのと必然的な関わりを持つのか、ちょっとわからんけど

舛田京
+1
あなたと私という2点では平等とは?と食い違うので
第三点で「神」を使うということかな?

その辺が今日の無神論、宗教嫌悪、悪しき神道のあらわれなのか

諸井三
+1
前から言ってるけど、「自己と他者」が対称関係であるとはどうも信じられなくて、非対称の関係ではないか、そこに性的な関係があるんではないか、と思ってる、まだわからないことも多いけど、

自己と他者の関係を、他者と他者の関係であるかのような対称の関係、対等、平等な関係とするのはどうも無理があるように思えるんだけどな、、、

これも違う形で何度も言ってるけど、客観性や公平さや対等な関係とかを言う時に「自己」という特異なものを見逃してることが多いと思う、
性的な、欲動する自己を、エゴイズムを含めて非対称な関係を考えようと、まあ自分はしてるつもりで、
まああんまりわかってないんだけれどとても重要なことだと思ってるよ


舛田京
+1
民主主義はなんかちがうな...近代社会と言ったほうがいいか

諸井三
+1
あー近代社会と公平、というのは少しわかるかも、

叩き台としてテキトウに書くけど、かなりいいかげんです、批判OKですよ、ただしわかりやすい批判がありがたいな、

たぶん近代以前は「客観的な事実」というイメージは人にとってあまり確実なものではなくて、幽霊や妖怪が世界にはありありと感じられていたのではないかなあ、
そうした無秩序世界では世界を信じることができないから、なんらかの真実が必要で、そうした実践的必要性によって信じるもの、神があらわれてきたのかな(このあたりいずれもっと書きたいが)

近代になって「客観的な事実」が広く認められるようになってきた、科学が世界の秩序を説明する、それはだいたいニュートン的な、決定論的な科学観ではなかったかと思う、
それが宇宙の秩序であると信じられたので当然神の役割は衰える、あたらしい神がひろめられた、
しかしそうした決定論的な科学的秩序は他者と他者の関係性を記述するものがほとんどだった、
そうした物理秩序は「自己」の特異性を考慮しない、
ので「自己」は存在を認められずに客観的な役割性のみが考慮された、
いわゆる自己疎外てやつかな、正確な理解かわからんけど、
そうした神によって公平さは成立した、
共産主義社会の理想というのも、自己の特異性を否定してこそ成り立つのではないかな、自己優先性とか私有物とかを否定しないといけないらしいから、
(こんへんいいかげんですよ)
共産主義が他の神を否定するのも当然だと思う、

自己を優先する、エゴイズム的自由競争社会は破綻するが、エゴイズムを認めない平坦な社会も破綻する、というか不自然ではないか、

そして現代科学では決定論的な秩序は無限定に信じられてはいないようだが、一般的にはそうした神がまだまだ信じられていて、実践性としてはそれでほとんど間に合うらしい、
がそうした秩序を無限定に信じないのもまた人間の考え方の中にあるように思う、
「自己の特異性」と「客観的な事実」などの問題はまだまだあるのではないか、
「自己には特異性は無い、自己と他者は同じである」とすれば世界は客観的な事実のみによって統べられるかもしれないが、どうもそれは疑わしいんだなあ

舛田京
+1
この問題をエゴイズム的自由競争と反エゴイズムの共産思想に沿って「自己と他者」「他者と他者」に落とし込むのは共感しました。感激もした。こういう思索は本当にありがたいです。

ちょっと考える。


諸井三
+1
ちょっと長いけどせっかく書いたのでコピペ


自分の考え方、というか疑問はシンプルで、でもよくわからないところもある、
それは「自己と他者」の差異について考えることだろう、
「自己と他者」は非対称の関係に思えるのに、それを「他者と他者」の対称関係と同じに考えるありかたがあまりにも多い、
自己を消去して考えるあり方は、決定論的な近代合理主義や、、、たぶんそれ以前から神にかかわる考え方の中にもあるのではないか、

大雑把な仮説で言うけどその構造は

①神Aと、神をなかだちする媒介a、そしてその他のx1,x2,x3,,,
みたいなものを考えてみる、
x1,x2,x3,,,たちは神のもとには平等であり平面にあり、そこから垂直上にaとそのかなたのAを仰ぎ見る形になるだろうか、
しかしもしAからaを見るなら、それはx1,x2,x3,,,とかわらない平面にあるように見えるだろうか、

これはもちろん神と教会と民衆、という構造を考えているが、「自己と他者」を似たような構造として考えると

②自己をAとするなら、他者はx1,x2,x3,,,だが、ここに問題があって、「自己」は「観察する自己」と「観察される自己」にどうしても分裂してしまうようでもある、
「観察する自己」Aにとっては、「観察される自己」aは、他者のようでもあり、他者x1,x2,x3,,,と同じ平面にあるようでもある、
そして「観察する主体自己」Aはいくらさがしても観察できる客体対象として観察できないようだ、
しかしこれが神、教会、民衆、の構造と少し違うように思うのは、このaが、あらゆる変動性によって観察対象としてのaはa',a'',a''',,,,,と観察するごとに違うように見えることではないか、実質的にはそうして複雑化されたaたちはxたちと見分けがつかないのではないか、
それはつまり自己を他者として見ることであり、自己を投影することによってしか他者を見ることはできない、ということではないか

③そして近代社会、決定論的な近代合理主義的世界観をこの構造に似せて言うと、
そこでは神Aとそれを垂直上に仰ぎ見る平面上の他者x1,x2,x3,,,たちがあるだけでa',a'',a''',,,,,は無いのではないか?
そこでの神Aとは物理法則、万人に普遍的に共通する客観的で確定的な法則、であるから主観や自己は介在する余地が無いのではないか、



繰り返すと
①神、教会、民衆の関係は
神A、介在する教会a、民衆x1,x2,x3,,,と考えてみる

②自己と他者は
主体自己・観察する自己としてA、客体自己・観察される自己として変動するa',a'',a''',,,,,、他者としてx1,x2,x3,,,

③近代社会、決定論的な近代合理主義的世界観は
物理法則・万人に普遍的に共通する客観的で確定的な法則A、それに絶対的に支配される自己の無いx1,x2,x3,,,

みたいな仮説は可能だろうか?

もちろん決定論的な近代合理主義的世界観が破れてしまった現代の世界観もあるかもしれないが、それをこのモデルに似せて言うと、、、
どうも②のモデルと同じような気もする、
Aを追い求めるが変動し続ける世界観a',a'',a''',,,,をx1,x2,x3,,,たちが追い続けるようなものだろうか?
前近代、近代、現代の時系列で言うなら
①、③、②かもしれない、

しかしたぶん前近代や近代のあり方も現代にあるだろう

もういちど言うけれど、自分としては、自己を消去して成立する世界観、自己と他者の差異を認めない世界観、自己と他者の非対称関係を考えに入れていない世界観は、どうも怪しいと思う、、、



舛田京
+1
+諸井三
①②について、
観測者については僕も同じような思考回路で考えていました。
自己の連続性を含めて考えるとやはり自己は無いとは言えない。

とてもひねくれた思想ですが、と前置きして書くと

他者を、神(複数でも可)を周りを埋め尽くした形での浮き上がった自己のように感じてしまう。

自己と他者が非対称ということは納得可能、それは自己を極大させることや自己を極小なものへと押し込むことも可能なはず。
だが、自己は無いとは言えない。なぜ自己は0や無限にならないんだろうか?

Ghost(ゴースト、ガイスト)とはよく言ったものと関心していた所です。
第3点の神という視点から見るという自己とも他者とも似つかないモノは僕が神話や宗教、神道を血肉にしているためか、正直懐疑的です。
数学で初めて虚数に出会ったような。そんなのありか?という力技を見せられた気もする。


諸井三
+舛田京 うーん、、、言ってくれるのはありがたいけど、文章がわからなところが困るなあ、、、
できたら修正してもらえませんか、
例えば
「他者を、神(複数でも可)を周りを埋め尽くした形での浮き上がった自己のように感じてしまう。」というのではなにを「浮き上がった自己のように感じてしまう。」のか文章としてわからないです、
説明するか、書き直すかしてくれませんか、、、

「第3点の神という視点から見るという自己とも他者とも似つかないモノは僕が神話や宗教、神道を血肉にしているためか、正直懐疑的です。」という文も何を意味しているのかわからない、説明か書き直しかしてほしい、
相手に通じなくていいのだろうか、、、

文章をわかりにくくする癖がでてないだろうか、

できるだけ単純で地味でわかりやすい説明がありがたいです、



舛田京
+1
「他者を、神(複数でも可)を周りを埋め尽くした形での浮き上がった自己のように感じてしまう。」

周りを埋め尽くしてできたスペースを自己としているような感覚に陥る。

「第3点の神という視点から見るという自己とも他者とも似つかないモノは僕が神話や宗教、神道を血肉にしているためか、正直懐疑的です。」

神は自己の中にいるか?神は世界の外側にいるか?という問題があるので、今回、その第3点である神は外側の仮定ならすんなりいくが自己の内部の神というなら破綻しないか?という問題提起



諸井三
+1
どうもありがとうです、

「周りを埋め尽くしてできたスペースを自己としているような感覚に陥る。」
は、言うまでもなく②の自己Aと似ているだろう、自己a',a'',a''',,,,,は他者x1,x2,x3,,,と同じ平面にあるようでもある、
自己Aを①の神Aと同じような垂直に置いたのはひとによっては反発される言い方かもしれないが、ではなにか他に適切なアイデアがあれば聞かせてほしいと思う、

自己Aは主体として観察される対象にならず一方的に観察する主体としているのも極端の批判を受けるかもしれない、
ではなにか他に適切なアイデアがあれば聞かせてほしいと思う、

ここでの自己主体Aは、自己a',a'',a''',,,,,のような客体化された観察対象としてのデータを残すだろう、それは自己Aの軌跡みたいなものだろうか、
自己Aは自己a',a'',a''',,,,,を吐き出す、生み出すホワイトホールのような特異点として、この垂直性は②で考えられていて、そこが「周りを埋め尽くしてできたスペースを自己としている」という周囲がまずあって、その後に中心があるイメージと大きく違うだろう、というか似た世界観であってもそこは逆ではないか、

ここでは公平さ、対等さ、という概念を考えるために、「同平面にある他者x1,x2,x3,,,と自己a',a'',a''',,,,,」と、それに対する「垂直性としての自己A」を考えた、
水平性を考えるためには垂直性を考えねばできないと思う、
公平さを考えるなら公平でないものについても考えねばならないのではないか、

それは桝田さんに対する批判でもある、公平さを考えるならこうした垂直性についても考えてほしい、
それが意識されていないのが近代合理主義の弱さではないか、
神Aを、垂直性を意識したほうがいいのではないか、

そうした垂直性が「自己」の特異性と関わりがあり、エゴイズム、自己優先性、のようなあり方とも関わりがあるのではないかと思う、

先に言ったように、近代合理主義の先に共産主義的な理想があると思うが、そこでは垂直性が意識されていないのではないか、

いままで何度も桝田さんに「自分にエゴイズムはあると思うか」と聞いたのは、そうした自己の特異性を意識しているかどうか、という問いかけでもあったと思う、

公平さを考えるなら、公平ではないものについても、垂直性や自己の特異性についても考えよう、という批判でもありました、

それがつまり「自己と他者の非対称の関係」を考えるということではないか、

うるさくて悪いのだけど、自分としてはこれは重要なことであるように思う。


諸井三
+1
「神は自己の中にいるか?神は世界の外側にいるか?という問題があるので、今回、その第3点である神は外側の仮定ならすんなりいくが自己の内部の神というなら破綻しないか?という問題提起」というのは、すいませんがよくわからない、

ここでの自己Aは客体化対象化できないもの、としているのでそれが自己の中にあるかどうか、というのは少なくともここでの話の展開では見えてこないように思える、

いまのところ先に言ったように「自己Aは自己a',a'',a''',,,,,を吐き出す、生み出すホワイトホールのような特異点として」考えているが、その問題提起に対して適切かどうかわからない、

ただ「他者x1,x2,x3,,,」にも「自己a',a'',a''',,,,,を生み出す自己A」のような「他者x1,x2,x3,,,を生み出す他者にとっての自己X」のようなものがあるかもしれないと思い、それが客観的な世界があることを信じる手がかりになってはいるかもしれない、とは思う。


諸井三
+1
言うまでも無く①②③のモデルはイロイロ問題あると思うが、まあ考える為の叩き台くらいにはなるかもしれない、

自分は③がもう少しちゃんと言えないかなと思う、考えてみる

③は「決定論的な近代合理主義的世界観」だとしたが、
近代合理主義で検索すると最初に出てくるのがコレで、まあ同じような意味だと思う
http://mnet.ne.jp - 近代合理主義

「要は主観に伴う総ての環境を徹底的に排除したことである。」
だから主観は無く、世界は客観的な事実、つまり真実が明白な世界、であるわけだ、
「物理法則・万人に普遍的に共通する客観的で確定的な法則A、それに絶対的に支配される自己の無いx1,x2,x3,,,」と書いたのはだいたいそうだと思うが、それは①の
「Aとaとx1,x2,x3,,,」の関係からaを抜いただけのようでもあるが、aは主観、Aについての解釈であるけれど、そうしたものが無くて真理が万人にとって明らかである世界、を考えたわけで、「Aとx1,x2,x3,,,」の直接的な関係になるから、真理であるAについては考える対象にならないので思考から消去され、xたちの関係についてだけ考える、つまり「他者と他者の関係」だけを考えることになるのではないか、
それを批判的に考えるから「Aとx1,x2,x3,,,の関係」という言い方になるが、それを批判してはいけないという見かたをするならAは考える必要の無いものとして消去されて「xたちの関係」だけが問題になるのではないか、

つまり近代合理主義に無批判に、近代合理主義の内部だけで考えるならその構造は「xたちの関係」になるが、
その外側から批判的に見ると「(神、または超越的な)Aとx1,x2,x3,,,の関係」ということに、③はなるだろうか

近代合理主義が共産主義的な理想を持つ、「自己の特異性」を排除した合理的理想世界を考えたのはわかるような気がする、


②のモデルでは「Aとa',a'',a''',,,,とx1,x2,x3,,,」のように、aの多様性、変動性、時間性を考えているわけだが、うーん、、、
 

舛田京
+1
+諸井三 近代合理主義を近代合理的演繹法で説明できるか?
というパラドックスの気がする。

諸井三
+1
んーわかるような気がするけどよくわからないような、、、
その場合の近代合理主義とはなんなのかとか、詳しい説明があるとありがたいけど、ダメかなあ・・・

パラドクスがいたるところに出るのはそうなんだけど、いたるところに出過ぎる万能性があるのがパラドクスの困るところのような気がするんだけどな、、、

どういうパラドクスなのかとか、できれば精密で手間のかかる話が聞きたいが、物好きでないとそういう話はしないものなのはそうだけど自分としては聞きたいです


舛田京
+1
近代合理主義をAとしておいて
A=B+Cみたいに置き換えたとしても、近代合理主義の内部で近代合理主義を交換可能、対称的にとらえていくと
破綻してしまうんじゃないかってこと

例としてマスコミが世界を観測しようとしてもマスコミ自身も世界の一部なので観測される現象は常に変容していくような感じ


諸井三
ありがとうです、
でもあまり詳しい説明に思えないので食い違う話になったらすいませんが、こちらの解釈でやってみる、

まずその文の前半の、「近代合理主義の内部で」とあるところは気になってたので書き足したところがそれの説明になるかも、

前々コメントで
『つまり近代合理主義に無批判に、近代合理主義の内部だけで考えるならその構造は「xたちの関係」になるが、
その外側から批判的に見ると「(神、または超越的な)Aとx1,x2,x3,,,の関係」ということに、③はなるだろうか』
とあり、内部からの見かたと外部からの見かたを違うものとして示している、ので常に近代合理主義の内部から見ているという条件設定は当てはまらないのではないか、
もちろんそれが正しいかどうかは別の批判になるだろうが、
言われている面は意識していて、だからこそ内部と外部の見かたを違うものとして設定しているので、
「近代合理主義の内部で」という設定は当てはまらないのではないか、


そして文の後半「例として~」は文内容が示すように、ここでの近代合理主義についての内容に限定されていない、
それは先に言ったような「いたるところに出過ぎるパラドクス」として広い範囲設定で考えるべきことではないか、

それはいわゆる「観測問題」というものだと考えたほうがいいのではないか、
wikiの観測問題は量子力学的専門性に過ぎると思うので自分の解釈で言うと、「観測データと観測対象は常にズレていて、ある不確定性を伴う」みたいなことで、
つまり観測対象を観測するためには、対象に光をあてたり電子をあてたりしなければならないが、そうした観測自体が観測対象に影響を与えることが避けられない、ゆえに観測前と観測後の対象は変化して(多体問題の解のように?)不確定性原理をともなった解しか見いだせない、

自分としてはこの問題をシンプルに記述するべく、モデル自己②においてそれを『主体自己・観察する自己としてA、客体自己・観察される自己として変動するa',a'',a''',,,,,』として観測者と観測対象として記述しておいた、
aはAについての観測したデータであるはずが常にAとズレる、ということだ、
それは「自己と他者」というシンプルな関係として記述してもいいが、Aとaの自己意識の関係の方がよりシンプルだと考えた、自己aも他者xも、自己Aに対してはズレたものであるという考え方です、


このあたりはもっと考えなければいけないことがありそうだがなかなか難しい、

話していることは伝わるだろうか?食い違っているだろうか?
問題設定を精密にしてくれるとより精密に答えられるかもしれないが


舛田京
+1
「自己aも他者xも、自己Aに対してはズレたものであるという考え方」

の部分で納得できました。ありがとう御座います。
説明不足な質問で申し訳ない。

諸井三
いや、これらの件についての質問はありがたいんです、
いろいろ不安に思いつつ「こんなんで神、垂直性、上位概念、主体自己らをAとしてまとめて考えていいんだろうか」とか悩んでるので、

なにか思いついたらまたどうぞ
僕の勝手な考えだけど
社長もアルバイトも同じ会社にいる「ただの人間」であるという根底がなければ、労働と対価を交換できる対等な関係という民主主義的な進み方は無理でしょうに。
いつまで封建制度を続けるんだ。
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 信じる ということについて


信じる、ということが気になる、興味がある、
たぶんそれは、自分が「信じる」という仕組み、システムの中に居ると感じているからではないか、
それは、直感的に言うのだけれど、自分は、信じる、というやり方の内部に居て、その外がどうなっているか、を考えているのに近いだろうか、


例えば「俺はなにも信じないぜ」みたいな態度の人も居るが、自分としては「ホントかな、でもなにかしらを信じてるものではないのかな、たとえば『自分は在る』とか『ラーメンはとんこつラーメンにかぎる』とか、なにかを信じてるんではないかな」とか思う、
自分が「なにも信じていない状態」が思いつきにくいからそう思うらしいのだが、いや「俺はなにも信じないぜ」と見せかけたがる人は居るけどそんな宣言までする人は見なかったかな、まあいいや。


その「自分・自己は在る」ということはかなり基本的なこととして自分も信じてるぽいけど、それはつまり『「自分・自己は在る」と信じてるようだ』ということで存在論の背景(メタレベル)に「信じる」というのが要るのではないか、と考えるからだろうか、
なにか(存在論とか)を考えるときにまずなにかを信じるようなあり方が要るのかもしれない、
あらゆるなにか、について考える前に「信じる」という前提があるのかもしれない。


いや「思考の過程は仮説・仮定として考えるのだから信じるというのは必要無いのでは」というような疑問もあるが、
いや、その仮説とか以前のなにかを少しでも信じているようにも思う、
曖昧な話で悪いのだけれど、それがつまり「今の自分が『信じる』というやりかたの内部にある」ということではないか、


たとえばデカルトみたいな「我思うゆえに我あり」も、「我はなにかを思っている(と信じている)ゆえに我あり」みたいに、「信じている」というのが隠れているのではないか、それは意識されない前提としてあるのではないか、とも思う、、、
それを分解するなら「我はなにかを思っている」というのが客観的な事柄であり、「と信じている」は自身の主観的判断ということになるだろうか、
そこから「ゆえに我あり」の結論に行くわけだが、その間の「と信じている」という判断の根拠はなんだろうか、
それは主観的な思い込み、独断でしか無いのではないか、、、
自分の判断というのは、いつもそうした隠れた「信じている」ことに支えられているのではないか、
みたいなことが気になるのです。
「と信じている」がいろんなところに隠れているような気がして、気になるんです。


 考え中

 自分の考え方

自分の考え方の基礎はものすごく単純だと思う、
いろいろ考えたすえに単純化したとも言えるだろうけれど、それはこんなものだろうか

もとは「存在」があって、そこから「現象世界」が現れてきたのではないかと、自分は考えているようだ

「存在」には特質は無いだろうが「現象世界」から見たその特質は同一性だろうか、つまり闇と光が同じであり、右と左、上と下、過去と未来、自己と他者が同じであるという同一性だろうか、
「現象世界」ではその同一性は無く、あらゆる差異によって現象が生成反応する世界だろうか、
「現象世界」は時間的差異、空間的差異などの差異の場であり、それらは差異を解消するような、同一性に向かうような動きをしていると全体としては言えるだろうか(このあたりは保留だが)
「現象世界」には「存在」から出て「存在」に還るような動きがあるかもしれない、

「現象世界」が現れている、というのは今ではほとんど認められているだろう、現象学、実存主義、現代思想などはそこに基礎を置いていると思う、
「存在」について考えるというのはむしろ時代錯誤の思想とも言えるが、自分としてはそれを考えないわけにいかなかったらしい、
それはなぜか

それは簡単に言えば、現象世界の関係性だけで考えようとすると、観測問題、に突き当たるからだ、
観測された事柄はまったく客観的なものだけによるのではなく、主観的な判断にも関わっている、その主観、主体を無いものとして世界を考えるわけにはいかない、
しかしその主体は客体、客観情報として取り出すことができない(少なくとも自分にはそう思える)、主体は客体にすると主体では無くなるからだ、
つまり観測できない(ように思える)主体・自己がどうしてもあるように考えられる・・・

そのように仮説として、自己・主体がある、と考えたときに問題なのは、では客観世界というのはその自己・主体からのみ生成された主観的な夢みたいなものだけしか無いか、ということが気になるが、そこで何らかの意味で自己とは違うもの、他者・客体があるようだという経験的判断によるならば、自己の他にも主体がある、この世界には観測不能な主体が自己以外にも多くある、ということになり、そうした自己以外の観測不能なありかたの全体をもし言うならば「存在」と言う方がいいだろう、として存在、または存在世界、というのを考えざるを得なかった、というところだろうか、
「存在」と言うとき、そこには自己と、自己以外の観測不能な他者が含まれている、(もしくは予感している、とでも言うのか)というのがここのポイントだろうか、

それは観測可能な「現象世界」の基礎に「存在」が観測不能に存在している、という考え方になるだろう、、、

いま読んでもわかるとおり、ここには多くの飛躍、未証明もしくは判断不能ではないかと思えるところが多いだろう、
けれどここに使われている考え方の多くは常識的、経験的に穏当なものばかりでは無いかと思う、
世界の全てを主観であると言ったり、客観であると言ったりせず、両者のどこかの中間もしくは両方ではないか、としている考え方は穏当なものではないかと思う、
たぶん他の考え方も可能だろう、
これらはすごく不完全なものであると思う、
でも今のところはこういう基礎から考えることが自分にはやりやすいようなのだ、、、

これに対する批判や改良点、進めていく点、疑問点などあれば歓迎します

とてもどうでもいいことを書くし、気分がわるくなる人もいるだろうから
熟読は薦めない。
高校を卒業していろんなバイトをしていた。
勝手に東京に行き、行ってから考えようと思っていたし、今考えると無謀でしかない計算も全く無いイノセントの塊だったと思う。
金を稼ぐだけならなんでも良かったし、なんでもやった弁当屋、繊維工場、新聞配達、駐車場整理、とにかく欲しかったのは経験値。
やりたいなと思った仕事をやりたくなくなるまでやるのは一番イヤだったからだ。僕は要は飽きっぽい。損切りが早い。
バイトならいつ辞めてもいいし、何個掛け持ちでやってもいい。とにかく動いてなけりゃ、働いてなきゃ、稼がなきゃ死ぬっていう性分だった。役者さんがいろんな役ができて楽しいとかいうけど言ってることはなんとなくわかる。

そんな中、塾講師のアルバイトを半年間やってたのでそのことを書く
教えるのは中学生とか小学生なのである程度の学力があれば塾講師はできる。もちろん大学を出たちゃんとした人もいるし、大学生もいるけど高卒は僕だけでセンター試験も受けたことはない。基本はテストの採点。
たまに塾内の掃除。

なぜ塾講師になったかと言うとロリコンだからだ。つまり女子高生や女子中学生が好きだったからである。歳も近いし声は良く掛けられる。コンビニやマックの店長がモテるのは主従の関係性が恋愛に発展しやすいからのようで。僕はそれをしっかり理解して実践していた。
僕が働き始めたのはちょうど夏休み頃で夏期講習の人出不足のため招集された。
朝掃除をしていると私服の高校生がうろうろとやってくる。未来ある若者かと自分もほんの少し前までそうであったのに何処か上目線であったのを覚えている。心理学の実験で刑務官役と囚人役の環境適応についての本を後になって読むが多分そのころを思い出すと完全にソレだったと思う。
調子のいいヤツや無口なヤツ、やたらと色目を使うヤツもいる。小学生の独自の感性にも驚かせられる。楽しいなと思っていた。
秋頃
高校二年のテストの答案を採点しているとふと面白いことを書く子がいた。
名前の欄に携帯電話番号を書いて、一旦消した後があった。
照明に答案を掲げるとその子の電話番号が浮かび上がった。面白い子だ。
僕はほほぉと思ったが自分に当てられたメッセージであるかどうかわからないのでそのまま無視していた。
その塾では毎週テストがあるのだが次の週も、その次も透かすと見える電話番号が書いてあった。僕はその頃童貞力がMAXであるがそれと同時に労働意識が高いのでかなり動揺したのを覚えている。先輩の講師に相談した。すると27歳ぐらいの独身先輩講師はニヤニヤして言った。
「面白いなぁ…いいな…電話してみるといいんじゃないか?知らないふりして」
「でも、まずいですよね。」
と、返したが世間体で言ってるだけで本心はニヤニヤしている。
また、その週も透けた電話番号が書いてあった。いたずらに乗ってみようと電話をかけてみた。彼女は出た。
「誰?」
「講師の舛田」
「まじで!ほんとに!?」
彼女は相当僕のことをバカにしているなぁという印象だ。
それから一時間ほど彼女の話を聞いた。よく喋る女だと思った。
次の日彼女に会うとじっとりとした目線であった。僕はハントの対象となったのか?そのあたりはわからない。
すると、次の週からその透ける電話番号の答案が増えた…
大体10人ぐらいの電話番号が書いてある。参った。
1人にかけた手前、全員にやらなきゃ不平等だしなあ。とりあえず全員にかけた。もちろんこちらもおふざけなので問題ない。特に他意はない生徒と講師の電話である。恋愛でもなんでもない。男でも女でもそこは関係ない。と理論体系と精神をしっかりし10人中電話に出た8人と話した。
生徒達は本当にニンフのように僕を惑わした。

さぁ?おかしくなるのにどれ位かかっただろうか?
たった一ヶ月程で僕はだいぶおかしくなっていた。手こそ出してないがまるで塾生達を獲物を見るようになった。そんな時先輩講師が
「最近、先生ぽくなってきましたね。」
と、爽やかに言った。
「そうですか?」と答えたが、少しぞっとした。
趣味でギャルゲーをプレイするのだがそれに似ていることに。
しかも、この塾講師というゲームは受験シーズン前になるとキャラが更新されるし、キャラ更新も一年じゃない、なんだったら3ヶ月もしたら新キャラが増える。小学生の女の子がオンナという生き物に成長する。その過程を果実が熟れるのを待つがごとく楽しみにしている自分がいる。
制服を着て労働資源として生産される子たちがここではまるで性資源のブロイラーのように見え、僕のイノセントな正義感を揺さぶった。

そして、こんな体に(性的に)悪い仕事できないなぁと思い一年もやらず春には辞めた。あとで聞いた話だが爽やかな先輩講師は捕まったそうだ。

意図しないアート

中学時代美術部だった。中2の頃。
母校では部活に入ることが強制だった故に、集まるのは運動部は嫌だというやつと真面目な美術思考のやつと、漫画アニメ好きのやつだ。
美術部は男子と女子に分けられ
人数も男子十数名、女子30名以上だった。
部室も男子は狭い美術準備室、女子は広い美術室。

美術部では毎年、部費獲得のため自分たちでいろんな絵画、漫画、フィギュアのようなものを出展、販売していた。
男子と女子は部費は別なので毎年赤字で画材すらない年も良くあって、顧問のポケットマネーに頼るしかなかった。

とある漫画家を目指す先輩がオリジナルキャラクターの漫画本を作ろうとしていた。
しかもカバーまで作り再来年までの部費は底を尽きる計算だ。
僕は案外これはいいと思ってた。画材がなければ来年は何もしなくていいと先輩を褒め称え部費のすべてを吐き出すことに賛成し、全員を説得した。
コレは絶対売れる!面白いからいける。
皆一様に首を傾げてた。部活ヘイトの奴らには
「これはチャンスだぞ。存続の危機とあらば、何もしてないのに居るだけで過疎部活の保守を名目に評価が得られる。」と説明し。

真面目な奴には
「これはチャンスだぞ。コレが成功したら好きなものをもっと作れる!何も出来ないまま3年間終わるより、戦って散ろう!それこそアーティストじゃないか?同志諸君!」とけしかけた。

顧問教師には
「我々男子部員は団結し、この過疎部活の危機を脱するにはコレしかないとまで思っている。そして、コレは売れると確信している。我々は顧問の施しを受けずに自分の足で立ちたいのだ。」
という、思ってもないことを目をキラキラさせて訴えた。
顧問は涙をこらえてたが…

僕はその漫画を読んだけど立ち読みでも無駄な時間かな?と思うぐらいの出来。

そして、当日。
文化祭マジックにかかった男子部員は見事に散った。一冊も売れなかった。

さて、シナリオ通りなのでマジックが解けて一週間経ってから男子部員全員連れて顧問に謝りにいった。そこまでやるのがロールプレイだ。
顧問はかつて画家を目指した過去を話した。何かは忘れた。

数ヶ月後に事件が起こる。

追記:
出先だったので結構駆け足で書いていたことを読み返して反省している。

10月での文化祭では一冊700円で販売していたためそりゃ売れません。まだ印刷所もネット対応してない時代でしたし、全部で100冊在庫を抱えてた。全部で5万円程かかり100冊で一冊あたり600円以上で売らなきゃならないっていうやばい橋を渡っていた。
男子美術部の経理を担当してたのは僕ですが、やってしまえとALL-INした記憶はあります。金庫には数百円しか残らなかった。

3年生が卒業し、僕らがたった10人で美術準備室に大量の在庫と共に取り残された。みんなを煽動した罪で部長は僕だ。
4月、GW前のことだったと思う。
緑色の靴紐のとある2年生美術女子部員が倉庫と称す、我々の美術準備室に物を取りにきた。
ダンボールに入ってた大量の漫画の在庫をみて聞いてきた。
「これ、何?」
誰も答えようとはしなかった。不良債権について。
鉛筆の走る音と一緒にため息なんかも聞こえた。

僕に責任の一端はあるだろうと思い。読書をしながら
「ああ、文化祭で一冊も売れなかった漫画の在庫だよ。」
と、本から目を離さずに答えた。
「これ、かわいいね」
皆、手が止まった…かわいいだと?
デッサンをしていた真面目なヤツも手を止め、驚いてその子に問いただした。
「これ、700円だけど・・・買うの?」
デッサンくんまだ値段を言うのは早い。

「え、高いなぁ…今、手持ちないし、でもほしいかな。」
皆、その子の感覚を疑った。僕らは顔が固まり、お互いの顔を見始めた。
「じゃあ手持ちある時に来なよ。」
「うん、そうする。」
その子は筆と筆洗いのバケツ、絵の具を持っていった。

その子が出ていった。沈黙が訪れる。
真面目なデッサンくんと宿題片付けマンは喋り始めた。
「冷やかしだよ。本気にすることはない。」
「そうだな。先輩に悪いけどこの漫画で僕らは痛い目見たんだよ。」
「ああ、先輩と舛田のせいでな。」
僕はすかさず
「悪かったな。部長がセンスなくて。」
と本から目を動かさず言った。

そうして、その日は終わり次の日も全く変わらないメンバーで各々作業を始める。

全員集まるとその子がすぐに入ってきて、デッサンくんに手を伸ばした。
「はい。700円で漫画ください。」
みんな各々作業の準備を止めてデッサンくんを見た。
デッサンくんは
「え、まじなの?これだよ。中読んでから決めたら?」
彼女は
「いいの。ソレください。」
僕は静かに
「毎度あり。」
そして、デッサンくんを本越しに睨んだ。
僕の視線に気づいたデッサンくんはそれを両手で賞状を渡すみたいに仰々しく頭を下げて渡した。

残り98冊(先輩が記念に一冊持って帰ったので)
さて、とにかく売れたのでその子が出ていってすぐにみんなで
「お~~~」
と、各々作業しながら話していたと思う。

次の日も1冊、その次は友達で3冊とポツポツと売れていった。
しかし、この現象はなんなんだ?と僕はわからなかった。このままでは美術部の経営は安定し、また文化祭や他の行事の作品を作らなければならなくなることに少し焦っていた。
僕は同じクラスで美術部の千堂くんに本心を打ち明けた。
「千堂、このままでは美術部の活動を再開せねばなるまいぞ。」
「そいつはまずいな。まずはなんで売れてるのか調べないとなんとも言えん、とあるクラスで流行してるとか?いろんなことが考えられるぞ。」
「千堂、最初に買っていった子のクラスをデッサンくんに調査させる。
デッサンくんは気配を消すスペシャリストだ。いわば隠密にはもってこいの我が美術部の人材。」
「ほほぉ、いい案だ。さっそく隠密開始させよう。」

というわけでデッサンくんの隠密活動を開始させた。
初めての購入者の女の子は2年3組の女子で次買ったのもその界隈だとデッサンくんから報告を受けた。

ある日夕方。その日まで10冊は売れた。残り90冊。

部室にミノムシがいた。千堂はカーテンに包まってふらふら何か考えてた。
「なぁ舛田さんよぉ。中身を見ずに得体の知れない本買うってどんなときよ?俺漫画しか読まないしわかんねーよ。」
「お、ミノムシくん。いい指摘だな。」
デッサンくんは手を止めて言った。
「確かに、おかしい。あの本は漫画本で見つかれば没収です。」
「うん、そうだな。」
「だから、おかしいんです。」
「何がだ。」
「そんなにみんなが面白くもない漫画を貸すわけでもなく学校に持ってくる意味がわかんないんです。」
「あ~…で?どういうこと?」
デッサンくんは馬鹿な先輩の僕らを連れ出して女子のいる美術室へ。

最初に購入したその子のところまでデッサンくんは僕らを連れてきた。
デッサンくんは女の子への耐性はなさそうで
「あの、その~えーっとですね。僕らから買った漫画をみせてくれます?」
そう言うと彼女は
「うん、いいよ。」すっとすぐにカバンから出した。
僕と千堂はまだ理解してなくて、
「これがどうした?」
デッサンくんは
「違うんです。重要なのは中身です。」
「え?」
彼女は中をパラパラと見せてくれた
「中身?ああ。中身は小説。このブックカバーがかわいいと思って使ってるの。見かけないキャラだし赤くて好きなの。」

僕と千堂は驚愕した。で聞いちゃいけない質問をしたんだ。
「中身は?」
「中身?ああ、あの漫画?多分本棚にあるよ。3ページで飽きたけど。」
「そっか。そうだよね。」

それからたくさんの人が買い求めに来た。赤いキャラクターのブックカバーを。なんだっらカバーだけ頂戴と言う子もいた。
夏休みまでにすべて売れて僕らは複雑な気持ちで大量の小銭と中身の漫画を見つめた。

夏休みに中身の漫画を千堂の家で千堂のおじいちゃんと一緒に焚書。本当なら小銭も一緒に焼きたい気分だったが千堂は次の子達に残しておこうよと言ったのでそれに従った。

その年、僕らの最後の文化祭がやってきたが、あの漫画事件の影響で、僕達男子美術部員は全員あの準備室でバラバラながらも繋がっていたが、本当にバラバラになった。幽霊だ。
みんなで話し合い、ブックカバーの売上金もすべて女子部員に渡し、僕らはひっそり各々の作業に戻ろうという決断にいたった。
千堂は

「何もない日常に戻ろうよ。きっとそのほうが幸せだ。」

僕もそう思った。その金で次は何に使い果たしてやろうかいろいろ考えてはいたが辞めた。

そんなグダグダの文化祭準備中。僕がふざけて文化祭の企画進行をしていると千堂は珍しく大真面目な顔で言った。

「次はどんなゲームをやるんだよ。もう俺たちは疲れた。」

その売上で女子美術部員は文化祭の打ち上げなんかをやってたそうで…
更に僕らは険悪になった。デッサンくん悪かったな。

随分、焚書って目に染みるよな。千堂。

マヨネーズをかいに
スーパーにいきましょう
たなにずらりとならんだマヨネーズを
ちぎってはなげちぎってはなげ
ゆかはつるつるつる
みんなすってんびっしゃんすってんびっしゃん
ああおもしろい

ケチャップをかいに
ケチャップやさんへいきましょう
こちらでございますとあんないされたら
そのひとをほうちょうでぶすり
ちのうみにしたら
てんいんさんにケチャップかけて
さあめしあがれ



(今朝起きたときにマヨネーズ切れたの思い出して)
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