2017.11.15 「第10話(最終話)」

テントウムシは草の茎を、
せっせと昇っていました。
枝が分かれたところに
さしかかったとき、
テントウムシは立ち止まりました。

そして一呼吸つくと、
高く伸びる枝を選び、
上を目指すのでした。
テントウムシの固い羽根から、
柔らかいレースの羽が広がり、
細かく震えると、
世界の一切の音は無くなりました。
テントウムシは太陽に向かって
飛んでいくのでした。
チョンボはテントウムシを
追いかけて歩き出しました。

団長さんは象の国に向かう
列車の中にいました。
列車の窓から、まぶしい朝日を
顔に受けていました。
窓に向かった顔の半分が、
温かく気持ちがいいのでした。
団長さんは頬杖をつきながら、
シューマンの交響曲「ライン」を
口ずさんでいました。
そして、懐かしいチョンボのことを
思い出していました。

サーカスはもうないのでした。
動物保護団体からの抗議が激しく、
年々売り上げが下がり、もはや
続けられなくなっていたのでした。
団長さんはもう団長さんではなく、
いまはなにもすることがないのです。

列車の窓から
大きな川が見えてきました。
団長さんは窓を開け、
身を乗り出しました。
たくさんの象の群れが見えました。
いよいよ象の国に着いたのだなと、
団長さんは思いました。

団長さんはチョンボに
会いたいと思っていました。
しかし、こんな地平線まで
続く草原の中から、一頭の小象に
会えるはずなどないのでした。
団長さんは自分のやっていることが、
滑稽で可笑しく笑いました。

それでも。
団長さんが象の国行きの
列車に乗ったのは、当てのないものを
掴んでみたいという衝動を
抑えられなかったからです。
列車はカーブに差し掛かったところで
急ブレーキを踏みました。
団長さんは、思わず椅子から
転げ落ちてしまいました。
間もなくして、
車内アナウンスがありました。

「お客様、急ブレーキを踏み、大変申し訳ありませんでした。
お怪我などされてませんでしょうか。
ただいま、この先で、小さな象が線路を横断しておりました。
それゆえ運転士がただちにブレーキを踏んだとのことです。
象が通過するのをしばらくお待ちください」

この国では人間より
象のほうが偉いので、
乱暴にどかすことはできません。
自然にどけるのを待つほかないのです。
「弱ったなー」という
車掌さんの声が聞こえました。

団長さんはふと胸の
ポケットのところに、
一匹のテントウムシが
止まっていたことに気が付きました。
団長さんはテントウムシを
指先に移すと、窓を開け
「ほら、お飛び」と促しました。

テントウムシはゆっくり飛び立つと
旋回し、社内に戻ってきました。
そして団長さんの胸に
再び止まるのです。

「どうしたんだい」

団長さんはテントウムシを
逃がそうと、外に出ました。
初めて団長さんは
象の国に降り立ちました。
足元から大地の響きを感じました。

テントウムシは飛び立つと、
線路をふさいでいる小象のところまで
飛んでいくのでした。
団長さんはそのままついていくと、
そこにはチョンボが
立っていたのでした。

テントウムシはチョンボの
赤い瞳の前でふと消えました。
団長さんはチョンボを見つめました。
この赤い瞳はチョンボだ。
団長さんはすぐに見抜きました。
チョンボもじっと、
団長さんを見ていました。
団長さんは、にっこりと
チョンボに近づくと、

「レディス アンド ジェントルマン。ようこそ、夢の国、我がサーカスへ」

とおどけて見せました。

「こちらにおりますのは、我がサーカス一の人気者、象のチョンボでございます」

とお辞儀をしました。
車掌が苛立ったのか、
大きな汽笛を鳴らしました。

「いけない。さぁ、いい子だチョンボ、こちらにおいで」

団長さんが言う通りにチョンボは、
団長さんについていきました。
線路から象が外れたので、
車掌と運転士はとても喜び、
さっさと団長さんを置いて
行ってしまいました。

「チョンボ、よかったら、私を君の国に案内しておくれ」

動かなかったチョンボですが、
しばらくして頭を下にさげ、
しゃがみ、鼻を団長さんの
ところまで伸ばしました。
団長さんはチョンボの上によじ登りました。

チョンボは団長さんを乗せて、
草原の中を歩いたのでした。
その日一日、歩いたのでした。
そして夜も木の下で
一緒に眠ったのでした。
ぐっすりと眠ったのです。
団長さんは、その間、
ひとことも話しませんでした。

やがて、朝日が地平線に昇りました。
団長さんはこの世界の
朝を見ていました。

チョンボの心臓は大地につながり、
低いドラムのような
リズムを刻み始めました。
真っ赤な血液が体全体に流れ、
その音は大地を削る滝のようです。

大きな樹々が、一斉に
地下から水を汲み上げ始め、
葉先の隅々まで葉脈を通して
行き渡らせている。
その音は、さながら
ファンファーレのようです。

鳥たちの鳴き声が聞こえてくる。
サルたちの雄たけびも聞こえてくる。
ライオンの唸りも聞こえてくる。
みどりの蕾から、真っ白な花弁が
開く音も聞こえてくる。

風が吹き始めました。
雲が流れ、空が、あぁ空が、
オレンジとも青とも赤とも紫とも、
とにかく美しいとしか
形容しようのない空が、
チョンボの頭上に現れたのです。

団長さんはその美しさに
圧倒されました。
そして、決意をしたように
チョンボに告げました。

「チョンボ、もう私とはお別れだ」

チョンボは不思議そうな顔をしました。
団長さんは背中を向けると、
ぽつりとこんなことを言いました。

「私は君に会えるとは思わなかった。ありがとう。
君が導いてくれたんだね。
こんな奇跡があるなんて人生とは不思議なものだ。

しかし、ここで、君とはさようならだ。
もう私はね。団長さんでもなんでもないんだよ。
そして君も、うん、チョンボではない。

とうにサーカスは終わったのだ。

星を見ながら夜中、君と一緒にやっていたときのことを思い出した。
あぁ。みんなのことを思い出したんだ。
楽しかったね。涙が止まらないのさ。
いやなことなどすべて忘れて、
楽しかった時のことしか思い出さないんだからね」

チョンボは胸が痛みました。

「ここは美しいところだ。
さぁ、小象ちゃん、自分のおうちにお帰り。
さようなら。さようならチョンボ。
どうか幸せな人生を送りたまえ」

団長さんはそういうと、
独りで歩き出しました。
後ろ姿を見ると、
泣いているようにも見えました。
チョンボだって、本当は団長さんに
会えた嬉しさでいっぱいでした。
これからもずっと
一緒に居られたらどれほど楽しいか。
サーカスのあの頃に戻れたら、
どんなに嬉しいか。
チョンボは大きな声で、
団長さんを引き留めました。
団長さんもチョンボの
そんな大きな声を聴いたのは
初めてでしたから、驚きました。

そして団長さんは、
生まれ変わったチョンボを見ました。
そして、チョンボにこういうのでした。

「あぁ。チョンボ
なんと世界は美しいことか」

そういうと、団長さんは
チョンボのもとに駆け寄りました。

草原に朝日が昇っていく。
太陽が地球を回っている。
美しい音、美しい色、美しい風、
美しい水で満たされている。
団長さんもチョンボも、儚くも脆い。
そして、世界は儚くも脆い
あなたがいるからこそ美しい。

― おわり。
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2017.11.07 「第9話」

象の国に住むチョンボは、
自分のなかにいる、愚図でのろまな、
チョンボと向き合うことなく、
穏やかに暮らしていたのでした。

それはとても穏やかな日々で、
今にして思えば、
なんでサーカスにいたころは、
あんな風に、毎日、哀しかったり、
落ち込んだりしていたんだろうと
思うのでした。
日が出たら起きて、
日が沈めば眠るその生活は、
とてもシンプルで、いまはもう、
褒められたいとか、
自信がなくて落ち込むとか、
そういうことは、
すっかり思わないのでした。

そもそも、ここでは
お金を稼ぐ必要がないのです。

水は川に行けばいくらでもあるし、
エサになる草も
いくらだって生えている。
ここではお金なんて、
なんの役にも立たないのでした。

チョンボは、
サーカスを知らない象に交じって、
穏やかに暮らしました。
ただひとつ、サーカス時代のことを、
誰にも話したりしませんでした。
みなさんに、お断りしておかなくては
いけませんがね、象は話します。
話すと言っても、人間のように、
言葉をつかって会話する
というわけではありませんが、
とにかくコミュニケーションは
人間と変わらずに取れるのです。
詳しく話すと
ややこしいので省きますが。

チョンボはサーカスの話しを、
仲間にしたところで、
誰にも理解してもらえないと
分かっていましたから、
話しませんでした。

けれど、ある晩、
チョンボは、夜眠ると、
フルーツドロップのような
ライトの下にいたのでした。
そしてファンファーレ
が高らかに鳴るのでした。
これは夢だろうと思いました。
そしてなんとこの夢は、懐かしく、
とても温かい気持ち
なのだろうと思いました。

ひげの団長さんがいる。
おサルもピエロも、
ピンクのトラたちもいる。
そのなかで、チョンボは、
大きなボールの前に立っていました。

赤いジャケットを着て、
眼鏡をして、黄色いハットと、
ステッキを持っているのでした。
そしてチョンボはファオンと鳴き、
二本脚で立ちました。
観客たちは、総立ちになって、
チョンボに、拍手喝采を送るのでした。
観客たちはみんな笑顔でした。

チョンボの前に、おサルたちが
三輪車を運んできました。
それは象専用の大きな三輪車でした。
チョンボはそれにまたがると同時に、
楽隊が音楽を奏でました。
蜂蜜のような音楽が、
トロリトロリとテントの中を包み込み、
観客もみんな、蜂蜜の中で
とろけそうな気分でした。
チョンボは、三輪車にまたがりながら、
テントの中を回りました。

そして、ステッキをあげたり、
トランペットに合わせて、
鼻をファオンとならしたりしました。
子供たちはみんな、
両手を頭の上にあげて、
拍手していました。
指笛がテントいっぱいに
鳴り響きました。

団長さんが、鞭でぴしゃりと、
地面を叩くと、ピンクの虎が、
一斉に、飛び出してきました。
そしておサルたちが、
輪っかをもって並ぶと、
そこをものすごい速さで
くぐっていくのでした。
テントの中に砂ぼこりが舞います。
ピンクの虎はさらにスピードを上げ、
輪っかをどんどんくぐるのでした。

大きなピエロが現れました。
そうして輪っかの前に立ち、
ブーッと口から炎を出すと、
たちまちリングは炎で包まれました。
そのリングを、
チョンボは鼻で捕まえると、
グルグルグルグル回しました。
ドラムが鳴り出すと、
リングから真っ赤なインコが、
数えきれないほど飛び立ちました。
それは炎がそのまま
鳥になったようでした。
そして、テントのあちこちに
インコが止まると、
テントは丸ごと燃えているようでした。

チョンボの前に
大きなバケツが用意されました。
ブドウ色の水が入っていました。
チョンボはバケツに鼻を入れ
大きく水を吸うと、鼻の先から
テントに放水を始めました。

するとどうでしょう。
水がかかった、赤いインコは
青く変わるのでした。
テントの中をインコは
円く飛び始めると、
チョンボはあたり一面に
放水を始めました。
水を浴びたインコは
次々に色が青くなるのです。
ピンクの虎も、
テントの中を回ります。
そしてチョンボが放つ水を浴びると、
青とも紫とも、赤とも言えない、
もうそれは虹のような
色になるのでした。

そう。
チョンボは、テントの中に夢のような
虹を作り上げているのでした。
観客たちは、もうずぶ濡れになって、
チョンボに拍手しました。
チョンボは地球にあるすべての水を、
このテントに放水している気分でした。
大陸を流れる大河が、
大地の割れ目に滝となって
落ちていくように、
チョンボの降らす、その水は、
何もかもを鮮やかに蘇らせるのでした。

団長さんは、その虹を見ながら
泣いているのでした。
おサルも泣いているのでした。
だって、そうでしょう?
あのチョンボがですよ。
あのチョンボが、
このサーカスの、テントの中で、
蜂蜜のような音楽の中、
赤と青のインコが飛び、
希望の虹を作っているのです。
チョンボも泣いていました。
サークルの砂地に緑の草が生えました。
そしてテントの屋根は、
もうそれは象の国の空と
見間違うくらいの、
コバルトブルーなのでした。
いや、もうそこは、象の国なのでした。

テントなんかないのです。
地平線まで続く象の国に、
子供たちや大人たちがいるのでした。
チョンボの降らせたのは
「雨」なのでした。

あぁ、幸せとは
こういうことを言うのです。
あぁ、喜びとは
こういうことを指すのです。


チョンボがずっと感じていた感謝は
「雨」となって、乾いた大地に、
乾いた人間たちの心に、
そのまま、いつまでも、
いつまでも降り注ぐのでした。

もうそれは、夢でも本当でも
どちらでもいいのでした。
チョンボにとって、
こんなに幸せな気持ちに
なったことはなかったのですから。
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2017.10.24「第8話」

団長さんはパリに居ました。
黄色味を帯びた
アイボリーの壁が印象的な、
クラシカルなパリのホテルに
泊まっていました。
団長さんの部屋は、五階の角でした。
そこからはセーヌ川と、
遠くエッフェル塔が見えました。
はめ殺しの鉄格子のくすんだ窓から、
パリらしい曇った朝空が見えました。

団長さん率いるサーカス団は、
パリ支庁からの招待で、
パリ郊外にテントを張り
公演を続けています。
象のチョンボがいなくなって、
サーカスの観客動員数は
一時減りましたが、
象を食べさせていく
飼育代が減ったのと、
ピエロたちの活躍で、
経営は前より幾分よくなっていました。

クロワッサンとなみなみと注いだ
カフェオレボウルが、
テーブルに置いてありました。
それは団長さんのいつもの朝食でした。

部屋の片隅の古いラジオからは、
ラフマニノフが流れています。
遠くにバスのクラクション、
通学途中の子供たちの歓声、
階下のクリーニングのボイラーの音が、
ラフマニノフのピアノと
混じっていました。
それもいつもの朝でした。

壁にかかった
古いナポレオンの肖像画は、
コチラを見てウインクをしています。
向かいのアパートメントの
バルコニーでは、飽きもせず
若い恋人たちがキスをしています。

団長さんは、クロワッサンの粉
を口髭に付けながら、ぼんやり
チョンボのことを考えていました。
チョンボの笑顔が
団長さんの頭から離れませんでした。
子象として初めてやってきたのは、
昨日のことのようでした。
毎日、褒めたり、叱ったりしながら、
サーカスをともに歩んできた日々は、
温かくしかし苦しい想い出です。

あぁいつか。
生きている間に、チョンボと再会し、
楽しかった日々を、
話すことがあるんだろうか。

そんなことが、叶わぬと知りながら、
カフェオレをすするのでした。
そして生きているうちに叶わぬのなら、
せめて死んでから会いたい、
そう思ったりもするのです。

チョンボは元気に
やっているんだろうか。
また愚図で泣いていやしないか。

そんなことを考えると、
胸が痛くなるのでした。
チョンボの笑顔を思い出すと、
涙がこぼれるのでした。


チョンボは象の国に居ました。
そこは、どこまでもどこまでも、
草原は続いているのでした。
時折強い風が吹き、膝丈くらいの草が、
あたり一帯、一斉に
倒れる様は圧巻です。

地平線の果て。
真っ暗闇のなかに、
陽はゆっくりと赤く昇り、
夕暮れの奇跡、
水平線に陽はどんと沈むのでした。

お陽様のその大きさと言ったら。
まぁ、なんとまぁ。
象の国、すべてを
飲み込んでしまうほどの大きさです。

赤ともオレンジとも言えない、
熟した柿のような、
いやそんなちっぽけなものではないな、
まさしくエネルギーの塊に
みんな従うしかないのでした。

夜はまたそれはそれは、
満天の星空で、
お星さまの一粒一粒は、
金平糖なんてもんじゃない、
ジュエルリングキャンディーほどの
大きさなのでした。

チョンボは頭上に広がる、
規則正しい空を見て
幾月を過ごしました。
そしてある朝のこと。
その日も同じように地平線から、
太陽がわずかに顔を出したところで、
ざっと世の中が変わりました。

木々の影がまっすぐ、寝ている
チョンボのところまで伸びました。
そして、ざっと風が吹いたかと思うと
たちまち、チョンボは、
あのチョンボが、
太陽に向かって立ち上がったのでした。
そしてあろうことか、
サバンナが揺れるほどの、
大きな、それはそれは大きな象の
雄たけびを上げたのでした。

コバルト色の空に、赤く染まった
フラミンゴが無数の数、飛んでゆく。

あぁ。その精悍なる姿を、
あなたたちに見せてあげたい。
ピンクの象牙を天高く突き立て、
パオーンと唸るその姿を。

あなたたちにその
雄たけびを聞かせてあげたい。
サーカスのチョンボしか
知らぬあなたたちに、
ションボリ象のチョンボしか
知らぬあなたたちに、
チョンボの中に消えかけていた、
象としての魂を。
いや、生き物としての躍動を。

チョンボは、いまこの世に生まれ、
生きていることを
太陽に示しているのです。

それからチョンボは、
雄大な自然の中で暮らしました。
そして、かつてサーカスに
いたことなど、もはや
すっかり忘れてしまいました。
チョンボは変わったのです。
もうションボリ象の
チョンボではないのです。


あっけない別れ方をすれば、
去ったほうよりも残されたほうに、
鋭く辛い哀しみが残るものです。

そしてその哀しみは、消えるどころか、
日に日に重たくなるものなのです。

トラムに乗っているときも、
スポットライトを浴びているときも、
あっけなく訪れたいくつもの別れを、
団長さんは忘れることが
できませんでした。

どんなに優しい音楽も、
ラフマニノフでさえ、
団長さんの気持ちから哀しみを、
きれいさっぱり拭い去ることまでは
できないのでした。

しかし団長さんは強いのです。
素晴らしい人間なのです。
抱えている哀しみを、すべて
胸の内にしまうことができました。
そして、観客の前で
平然と笑うことができました。
そういう仕事に就いているのです。

サーカスに来る観客の中には、
けして笑わない人
というのがいるものです。
いぶかしい顔をしたまま、
どんなに愉快でも拍手もしません。
そういうお客さんが多い日は、
ピエロは疲れます。
そして終わってから
団長さんに愚痴を言うのです。

「団長さんよ。
笑わない連中の前で、おどけるのは、
いつもの倍、いや10倍疲れますぜ。
あいつら、それがわかってねー。
お給料も倍、いや10倍にしてもらわないと、割りに合いませんぜ」

と言うのでした。

団長さんは、いつもこう言いました。

「ピエロくん。
いぶかしい顔をした人ほど、
本当は優しく弱いものなんだよ。
だってそうだろ。
だれよりも些細なことを哀しく思い、
そしてその哀しみを、内にも仕舞えずにいるのだからさ」

と慰めるのでした。
ピエロは、

「そうは言いますけどねー」
とだけ言い、
あとは何も継がないのでした。

ピエロでさえライトの陰では、
生きている哀しみを、
内に仕舞えずにいるのです。
だからこそ、
ヒトは娯楽や芸術が必要なのだと、
団長さんは考えているのです。


パリの公演は大成功で終わりました。
団長さんたち一行は、深夜のパブで、
ワインを浴びるように飲み、
歌ったり騒いだりして
憂さを晴らしたのでした。

その晩、チョンボは初めて、
サーカスの夢を見ました。
夢の中でチョンボは、
大いに活躍をし、団長さんや
みんなに恩返しできたのでした。
チョンボは草原で寝息を立てながら、
みんなへの恩返しを
夢見ていたのでした。
草原の星はチカチカと、
サーカステントのカラー電球のように、
大きくカラフルに瞬いているのでした。

そして、パリの朝日が昇る前、
サーカス団は
なにごともなかったように、
次の街へ移動するトラックへと、
乗り込むのでした。
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2017.09.12「第7話」

団長さんは、しばらく
じっと目をつむってました。
そして、何度も唇を噛みしめ、
大きくため息をつきました。
小さいのも合わせると、実に、
19回もため息をついたのでした。
しかし、最後、20回目の
ため息をついたあと、
みんなの顔を見まわして、
こう言ったのでした。

「みなさんいままで、よく我慢してくれました。
むしろ決断が遅くなったことをお詫びします。

チョンボは、もはやサーカスの一員ではない。
それはもうとうの昔にわかっていたことでした。
それでもチョンボに期待をしました。
もしかしたらチョンボは大きく変わるかもしれない、
という甘い期待を抱いてしまった。
しかしさすがにもうわかりました。
この街にチョンボを置いていきます。

それは、チョンボが決めたことでもあるのです。
ワタシはむしろチョンボに過度の期待を抱いてしまった。
チョンボも過度に頑張りすぎた。
サーカスはサーカスなのですから、
なにもしないでただ立っている、
というわけにはいかないのです。

チョンボはサーカス団の一員としては、
失格なわけですから、新しい道を探すべきなのです。
自分の人生の置き場所を。

それでいいと思うのです。

もちろんチョンボは悩んでいるでしょう。
ションボリもしているでしょう。
気持ちがひとつに定まらないでしょう。

サーカスでもっと頑張りたいと、
思っているかもしれません。

けれど、人生は決断の連続です」

そう告げたのでした。
みんなはもうそれはそれで、
団長さんが決めたことだから、
残念だけれど仕方ない、
そう思ったのでした。

団長さんは、そのまま、
なにかを告げようとしました。
しかし、言葉に詰まってしまいました。
ふと見ると、
小猿のウッキーが泣いているのです。

動物だって泣きます。
涙を流すことだってあります。
そのあたりはなにも人間と
変わらないのです。
言葉が通じなくても、
気持ちがつながれば、泣いたり
笑ったりするのがわかるのです。
団長さんは人一倍、
そういう動物の気持ちがわかりました。
だから団長さんなのです。

団長さんは小猿のウッキ―が
泣いているのを見て、
胸が詰まりました。
哀しい音楽が、
テントの中に流れました。
楽隊のピアノ弾きが、
哀しくて寂しい音楽を弾くのでした。
ピアノ弾きは、泣きながら、
ピアノを弾くのでした。

団長さんは泣いてはいけません。
ぐっと堪えしのんで、
話しを続けました。

「いろんなことを考えました。
色々なスタッフや動物たちの気持ち、
そしてチョンボの気持ちを考えました。

考えれば考えるほど、
決断はできなくなる。

自然は美しい。
なぜ美しいかと問われれば、
曖昧だからだと私は思います。
曖昧だからこそ、美しい。
はっきりとしたものは、
美しくありません。

だから、チョンボのことを
考えれば考えるほど、
決断ができなくなりました。

私はチョンボの美しさを知っている。
チョンボの無能を
裁くことはできるけれど、
チョンボのひたむきな姿勢という
美しさを、裁くことは。
私には、できない。
曖昧なものを、
受け入れる寛容さを、
強さを持ちたかった。
けれど、やはりそれは
サーカスの役割ではないのです。
そのことに気づきました。

チョンボにさよならを言うことにしました。
みんなも、チョンボに、
さよならと言ってあげてください。
こんな形で、終わってしまうチョンボの気持ちを、少しだけ汲んであげてください」

みんな、泣きました。
サーカスというものの
残酷さに泣きました。
しかし、すぐにみんなは
散り散りになり、
「チョンボの飼育小屋は撤去しますか?」
「残っているエサは処分ですか?」
「チョンボの演目の時間を、
パンダに変えてもいいですか?」
「次回のチラシには、チョンボを外すことを、忘れないように」

慌ただしく、それは
とても残酷でしたけれど、
責めないであげてください。
そうやってみんなは、哀しみを
乗り越えようとしているのです。

チョンボのいないサーカスの
仕組みを整えなければいけない。
そして、チョンボは
そんなことも知らず、
ただ寝ているだけでした。

テントは瞬く間に片付けられ、
すべての荷物が
トラックに詰み込み終わると、
サーカス団はこの街を離れました。

チョンボが寝ている灰色の檻と、
数日分のエサだけが
そこに残っているのでした。
カラスがその上をカーカー、
カーカーと鳴きながら
旋回しているのでした。
何を言っているのかは
わかりませんでした。

小雪のちらつく秋の終り。
なんてことのないただの木曜日に、
チョンボとサーカスは
あっけない終わりを迎えました。

いまチョンボは列車に乗っています。
チョンボは、まだ寝ていました。
どこに向かっているのか
わかりませんでしたが、
象の匂いや声がしました。
ガタゴトと列車は、
線路の上をひた走るのでした。
この象列車は、サーカスや
動物園を追われた象を乗せ、
象の国へと向かっていたのでした。
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2017.08.21 「第6話」

目を開けても、
チョンボは起きれませんでした。
起きようと思っても、体がちっとも、
いうこときかないのです。

ぼんやりと干し草に横たわり、
チョンボはなんでだろうと考えました。
考えましたが、
頭がジジジと鳴るだけで、
なにも浮かびませんでした。

ただただ横たわって
時間を過ごしました。
横になると、時折、
とても哀しくなるのでした。
そして、拭っても拭っても
涙が出ました。
涙はいくらでも出てしまうのでした。
こんなことは初めてでした。

異変に気付いた飼育係のスタッフが、
ひとことふたこと
声をかけてくれましたが、
黙って泣くだけのチョンボに、
お大事にとだけ言って、
行ってしまっただけでした。
ほかは、だれも声一つ
かけることはありませんでした。

新しい街でのサーカスは、
あまりお客さんが
入っていませんでした。
クリスマスまで公演を
続ける予定でしたが、
団長さんは、早々にこの街を出て、
次に行こうかと
決断を迫られていました。
この街でやっていると、
毎日たいへんな赤字なのです。

華やかにテントを彩る
赤や黄色のネオンも、
星空に届くほどのビームサーチも、
電気代がもったいないからと
消しています。

動物たちも団員も、
「長くやっていれば、こういうこともあるさ」と、
粛々と演目をこなしています。

サーカスとは不思議なものです。
同じ公演をやっていても、
拍手喝采を浴びる街もあれば、
この街のように、
ちっとも評判が上がらず、
むしろまるで無視されているのでは
ないかと思うほど、
客の入りが悪いこともあるのです。
確かに始まる前から、
どうも良からぬ予感はありました。

カラスを見ればその街が
わかると言いましたが、
森のカラスたちは毎日のように
チョンボのところへ来て、
余計なことを言うのです。

「お前のやっていることはまるで芸になってない!!」
「お前のようなグズは、サーカスをやめたほうが身のためだ!!」
「お金を払ってあんなサーカスを見させられたら、たまったもんじゃない!!」

ショーが終わった夜中になると、
カラスはチョンボのところに集まり、
とっかえひっかえ、チョンボに
余計なことを告げるのでした。

チョンボは、いつも
聞こえぬフリをしていましたが、
それはフリなんであって、
しっかり聞いているのでした。
そして傷ついてしまっているのでした。
それはチョンボの弱さなのです。
その弱さを狙って、
カラスは仕掛けてくるのでした。

鼻でステッキを持ち、楽隊に合わせて
ツリーチャイムを鳴らすという
演目があります。
これは団長さんが、なんとかチョンボに
見せ場を作ってあげようと
思案し始まったのです。
ポスターも作り、ピエロも楽隊も
チョンボを盛り立てました。
ところがチョンボは、
してはいけない重大なミスを、
度々犯してしまったのでした。

チョンボは、その肝心なところで、
叩くのを忘れてしまうのです。
いや、忘れてなんか
いないのかもしれません。
むしろ、その出番が嬉しくて嬉しくて、
興奮してうっかり叩くのを忘れて、
慌ててタイミングを
外したりするのでした。

そして失敗するほど、チョンボは、
ますます叩くことが
できなくなってしまうのでした。

サーカスの団員は、みんな一様に、
チョンボのことに腹を立てました。
演奏の一番のクライマックスで、
チョンボが失敗すれば、
それはもうショーにはなりません。
腹立たしくなるのは当然です。
一生懸命やって、
失敗したんだからそれでいい、
そういうことにはならないのです。
サーカスに生きるのだから、
失敗は許されないのです。
チョンボはサーカスの掟を
破ってしまっているのです。

ただ一方で、みんなは
こうも思っているのです。
チョンボのようなグズが
いたっていいじゃないかと。
なぜ同情し、可哀そうと
思ってしまうのでしょうか。
それはこういうことです。

誰にだって自分の中にチョンボを
「抱えて生きている」からです。
どうにもならないものを
抱えて生きているからなのです。
キリンの首が長いように、
サルのお尻が赤いように、
ラクダにコブがあるように、
サーカスの一員の前に、
どうにもならないものを抱えるのが
生きるということなのです。

だから、チョンボが何度失敗しても、
みんなはどこか苦笑い、本気で
叱ったりするものはいませんでした。
ドンマイドンマイと、
小さく慰めたりするのでした。

しかし、カラスは
決まってこう言うのでした。

「泳げない魚は魚にあらず、
飛べない鳥は鳥にあらず。

才能もないのに頑張ればできるとおだてられ、その気にさせられ、
あがいているのは見苦しい。
さらにそのことに気づかずに、
へらへら笑っているのはあさましいことなんだぞ。
慰めている連中だって、お前のエサ代や、
お前の穴を、実際いつまでカバーできるんだ?
お客の少ないこの街で。

一度や二度の失敗ならみんな許すだろう。
けど、お前の場合は、何度目だ?
それはドンマイで済まされることなのか。

チョンボ。
悪いことは言わない。サーカスなんて辞めちまえ。
みんなが言わないから、オレが代弁してやってるんだ。

辞めるほうが迷惑か、続けるほうが迷惑か。
よく考えろ。よくよく考えるんだ」

日が沈んでも、チョンボは、
全く立ち上がれずに
横になったままでした。
涙だけはいくら拭っても、
とどまることはありませんでした。

サーカス団は、早々にこの街を
出ていくことが決まりました。
そうと決まると、みんなは足早に
荷物をまとめてトラックに乗せ、
出発する準備をしているのでした。

準備のさなかでも、チョンボは
起き上がることはしませんでした。
見かねた団長さんが、獣医を呼び
診察してもらいましたけれど、
原因はわからないと
首をかしげるだけでした。

そして出発前夜の食事中のことです。
少しお酒の入ったところで、
ピンクの虎のモモを
担当する調教師のピッピが、
こう口火を切りました。

「団長に問いたい。
我々は今後もチョンボと一緒に回るのですか。
それならそうと従いますがね、
はっきり申し上げれば、
私はこの街にチョンボを置いていくべきではないかと思っています。
団長さんの意見をお伺いしたい」

騒がしかった空気がシンとなりました。
そして、みんな黙って下を向いたまま、
呑んだり食べたりしました。
そして時折、団長さんの顔を
上目遣いでのぞいては、
その決断を待つのでした。

団長さんは、腕を組み、
目をつぶり、じっと黙っていました。
その時間は、とてもとても
長く重苦しいものでした。
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2017.07.24 「第5話」

みんなに必要とされている
モモのその眩しさに、
チョンボはいつも落ち込むのでした。
同じサーカス団の一員として、
わたしはモモのように
輝くことができない。

それはなぜ。
努力が足りないから。
生まれつきの才能がないから。
運が悪いから。
そんなことを考えてもみじめなだけで、
チョンボの胸は
ただツンツンと痛むのでした。
モモはサーカスで一番のスターです。
そして虎です。
チョンボは愛嬌はあるけど、
グズで小さな子象です。
なにも芸ができません。

比べたって仕方がないのです。
そもそも何もかも違うのですから。
そんなことはわかっていました。
わかっているけど、
いつもチョンボはモモと比べて、
みじめな気持ちになりました。

団長さんからも絶大な信頼があって、
なによりチョンボに対しても優しい。
それなのにモモのことを、
どこか好きになれませんでした。
いや好きだけど、
どこかで距離をとってしまうのでした。
そしてそんな自分がとても嫌でした。

サーカス団は公演を終えると、
新しい街へと移動します。
テントやコンテナを乗せたトラックは、
団員や動物たちを乗せて
長い旅を続けるのです。
チョンボたち一行が新しく訪れたのは、
北国の小さな街でした。

新しく建てたテントは、
その街の中心地から三キロ離れた、
谷間にある大きな広場でした。
チョンボたち動物の檻は、
クマザサが茂った
沢近くに設置されました。
チョンボの檻の上には、
大きな、それはそれは大きな、
どんぐりの木が生えていました。

季節は秋でした。
北国の秋は夜になると肌寒く、
真っ暗な森は怖いほどの暗さでした。
チョンボは最初のころは怖くて、
カタカタ震えていました。
チョンボは暗いのが苦手なのです。
ところが強い風が吹くと、
どんぐりが檻に落ちるのです。
それは一つや二つではなく、
十や二十は落ちるのです。

コロンコロロン、
カランカララン。
風の強い夜には、
どんぐりの落ちる音が、
賑やかでした。
その音にすっかりチョンボは
楽しくなって、鼻で棒を持ち、
柵を叩いて、演奏をしました。
音楽を奏でると、不思議なことに
なにも怖くないのです。
こうしてチョンボは新しい街に
慣れていくのでした。

そんなある日のこと。

「おまえ、サーカスで一番の臆病者で、
とくに芸らしき芸はなにもできないんだって?」

そのカラスはやってきたのでした。
細くて黒いくちばし。
グレー味を帯びた大きな羽を
ばたつかせるそのカラスは、
チョンボにいきなり
そう言ったのでした。

チョンボは、いきなり
そんなことを言われたので、
鼻でカラスを威嚇しました。
それでもカラスはお構いなしに、
しまいには檻の中にまで入ってきて、
チョンボの背中に
飛び乗ってしまったのでした。

口の悪いそのカラスに
名前を尋ねました。

「名前なんてありゃしない、
あえて呼ぶならケッケーと呼んでくれ」
と、ケッケ―と
鳴きながら言うのでした。

チョンボはケッケーを
無視することにしました。
きっとこの街はこんな風なカラスが、
いっぱいいるんだ。
カラスを見れば、その街がわかる。
ライオンやシマウマも、
いつもそう言うのでした。
ケッケーは話し続けました。

「この街はな、かつては材木で、
たいそう景気の良かった時代があったもんだがね。
ケッケー。
いまはからきし。不景気の極みさ。
商店街に行ってみればすぐにわかる。
全部閉店しちまってる。
若いやつらは街を出て、
残っているのは年寄りばかりだ。
生ゴミもしけたもんばかりさ。
年寄りはみんなテレビを見るばかり。
お前のサーカスを楽しみにしるぞ」

聞いてもいないことを
ケッケとうるさく、
まくしたてるのでした。
そして、チョンボの頭の上に乗ると、
ささやきました。

「しかしだな、
サーカスのチケット代が高すぎると文句言ってる。
どうだ?売れ行きも悪いはずだ。

みんな初日が開き、
面白いと評判になってから行けばいいやとしているのさ。

だから、子象。
お前がぐずぐずなんかしていたら、
サーカスはつまらないという噂が床屋や病院で噂になったら、
サーカスのチケットは、
まったく売れなくなっちまう。
わかるな、ケッケー。

なんなら、オイラがお前の芸を見てやろうか。
それでこの街で受けるかどうか、
品定めしてやるよ」

さすがのチョンボも腹が立ちました。
なんでそんなことを、
初めて会ったカラスに
言われなきゃいけないのだ。
あまりに腹が立ったので、
こんなやつ唐揚げになればいい
と思ったのでした。
そして、今度は
とても哀しくなりました。

「なんかやってみろってば」

チョンボは、ふと考えました。
カラスは、カマをかけているのでした。
チョンボがサーカスで一番の臆病者で、
とくに芸らしき芸は
なにもできないなんて、
このサーカスの仲間は、
誰も言うはずないのでした。
でもチョンボは、
それがまだわからなかったのです。
それがチョンボの弱さなのでした。

それで、チョンボは言いました。

「誰がそんなこと言ってるんだい。
ぼくが役立たずだなんて」

カラスはケッケと鳴きはしゃぎ、
あることないこと、
あたかもそうだったように
言いふらすのでした。
チョンボは、それを黙って
聞いてしまうのでした。
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2017.07.10 「第4話」

このサーカスで誰かの役に立ちたい。
ここのほかのどこかへ行って、
曲芸のほかのなにかをしてみたい。

団長さんが行ってしまった後、
チョンボはここでの生活以外に
なにがあるかと、
よくよく考えるのでした。
そして考えても考えても、
なにも浮かばないのでした。
象のチョンボはサーカス以外の
世界を知りません。
狭いサーカス小屋の中で、
何年も暮らしてきたのです。

「動物園に行けば、サーカスなんかよりうんと待遇がよくて、
ラクチンなんだぜ」
そう言ってここを去った
トラの顔が浮かびました。

生まれ故郷の草原で暮らしていたら、
たくさんの家族に囲まれ、
さぞかし幸せだったのでしょうか。

「やっぱり家族に囲まれて暮らせることが一番幸せよ」
そう言ってここを去った
シマウマの顔が浮かびました。

草原に吹く風を吸いこみ、
シャワーのようなスコールを存分に
浴びれたならば、それはさぞかし、
気持ちのいい毎日だろうなと、
チョンボも思いました。

そして。
少なくとも、
だれの役にも立てていない、
こんな胸を刺されるような
傷みを抱かずに、済んだのだろう。
真っ暗な檻の中で、
チョンボは傷む胸を鼻でさすりながら、
なかなか眠れない夜を
過ごしたのでした。

しかし、あの日を境に、
チョンボは変わったのでした。
団長さんはチョンボに、よく
話しかけてくれるようになりました。

「やぁチョンボ君。今日の調子はどうかね」

チョンボは大小さまざまな棒を使い、
色々な音を鳴らして、その日の気分を
団長さんに伝えるのでした。

「そうかそうか、
まぁまぁってところなんだな。
今夜はお客さんがいっぱいだから、
互いに頑張ろうね」

そんな小さなやり取りができるだけで、
世界は幸福に
満ちたものになるのでした。
自分が変われば、
一夜にして世界は変わるのだと、
チョンボは驚いたのでした。

その日のサーカスは、
小さな子供たちでいっぱいでした。
近くの町の子供たちや、
教会の孤児院の子供たちを、
団長さんが招待したのでした。
子供たちは初めて見るサーカスに
興奮しっぱなしでした。

鼻の赤いピエロがおどけるたびに、
テントの中はキャッキャッと、
明るい笑い声に包まれました。
ピエロも気分がよくなったのか、
何度も同じ芸をして、
うんと長くふざけてました。

このサーカス一番の人気者、
ピンク色のトラが登場した時の
子供たちの顔と言ったら、
あまりの美しさに我を忘れて、
食べていた飴玉を口から
落とす子もいたほどです。

そのトラはモモという女の子でした。
モモの毛並みはそう、
桃の薄皮のように
うっすらとしたピンク色で、
縞模様は桃の果肉のような
アイボリーでした。
モモはライトを浴び、颯爽と
アルミで組まれたやぐらの上に昇ると、
大きな声で三回吠えました。
その声を聴いてまた何人かの子供は、
飴を落としました。
なかには飲み込んでしまって
むせる子もいました。
会場の空気は静まり返りました。
モモにはそういう力があるのでした。

会場のみんなが、
モモが何をするかに注目しました。
団長さんはムチを地面に
ぴしゃりと打ちました。
すると舞台の裏から
やぐらを囲むように、
真っ白なトラが10匹
一斉に飛び出しました。
そして、やぐらの上に立つモモに、
うーっと地鳴りのような
声で唸るのでした。
そして一匹のトラが
モモに襲い掛かりました。
モモはキッとそのトラをにらむと、
大きくジャンプをして交わしました。

もう一匹、もう一匹と、
モモに襲い掛かるも、
モモは飛んだりかがんだりしながら、
すべてかわすのでした。
ますますトラたちは唸りました。
そして円い会場の中で
モモを追いかけました。
モモはすごい勢いで逃げるのでした。
11匹のトラが円形に
すごい速さでぐるぐると回るのでした。
団長さんはその真ん中で、
ムチを地面に打ちました。
そのときピアニストが、モーツアルトの
ピアノソナタ第11番を
演奏するのでした。

するとトラたちはどうでしょう。
それに合わせて、ゆったりと
走り出すではありませんか。
子供たちは息を呑んで見守りました。
そして第三楽章になり、
トルコ行進曲が流れ出すと、
モモは再びやぐらに上がり、
団長さんもやぐらに上がり、
手をつないで踊るのでした。
ほかのトラたちも
やぐらの周りで立ち上がり、
手に手を取って踊り始めるのでした。

子供たちはその光景にすっかり喜んで、
手を叩いて笑ったり、
なかには踊りだす子までいるのでした。
それは夢の中の光景のようでした。

桃色のトラの周りを
モーツァルトに合わせ、
真っ白なトラたちが
円を描きダンスをしている。
どこにもない
このサーカスだけの景色が、
いまここにあるのでした。

大人たちはみんな、いつの間にか、
幼いころの気持ちを
取り戻していました。
顔を見ればそれがわかりました。
いかめしい顔をしたおじさんも、
厚化粧のおばさんも、
少年と少女の瞳になっていました。
そして現役の子供たちは、
やがて大人になる未来に
希望を感じていました。

ピアノはゆったりと流れ、
モモは団長さんを背中に乗せると、
颯爽と舞台のそでに去りました。
そしてトラたちも次々と後に続き、
去っていくのでした。
砂ぼこりがテントの中に立ち込め、
音楽と照明がゆっくりと
静かに落ちるのでした。

チョンボは袖でモモを迎えるとき、
いつも誇らしく思うのでした。
そして団長さんを、
仲間を誇らしく迎えるのでした。
みんな、はにかんで
照れくさいような顔なのでした。

そしてその三秒後、
会場は拍手と指笛で
割れんばかりになるのでした。
特に今日は子供たちの歓声で
ひときわすごかった。
再び顔を引き締め、
全員ステージに戻るのでした。

それがチョンボの、
このサーカスの日常なのです。
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2017.06.26 「第3話」

サーカスは果たして
必要とされているのかしら。
団長さんはこの頃、
そんなことばかり考えるので、
どんどん頭の毛が薄くなっています。
サーカスが必要かどうかなど、
考えても分からないことです。
だって、そんなの、
人によって違うんですから、
考えたってわからないのです。
だけど。
団長さんにそんな風に
言ってくれる人はいません。
そんなことを相談する相手が
団長さんにはいませんでした。
いつでも、彼は孤独だったのです。

毎日毎日、団長さんは、
お客さんに叱られています。
今日もひとつ大変なことがありました。
チョンボが子供たちと
記念撮影をするときのことです。
団長さんはチョンボを
鎖でつないだのです。
チョンボが暴れたりしないことを、
団長さんはわかっていましたが
不安に思う人がいけないからです。
ところが、鎖につなごうとしたその時、

「象を虐待してはいけません、
鎖につなぐのはお止しなさい」
と誰かが叫んだのです。

人だかりの中で、
鎖をはめようとした理由を、
できるだけ丁寧に紳士的に
説明したつもりです。

だけど、その場に居合わせた人たちは、
誰一人として、団長さんを
味方しませんでした。
そのときチョンボは、
自分が象であることを恨みました。
そして悔しくて仕方ありませんでした。
自分が象でさえなければ、
団長さんは叱られなくて済んだのに。

満月の光の中で、真っ赤なテントは、
青紫に沈んでました。
バナナのコンテナに腰かけながら、
団長さんは一人で泣きました。
バーボンで自分を慰めました。

「オレは喜ばれると思って、
サーカスを一生懸命やってきたのさ。
だけど、たくさんの人、たくさんの動物に、
ただただ嫌な思いをさせてるんだな。
まさかそんなことだなんて」

ピエロに厚化粧させていることが、
申し訳なく感じてきました。
空中ブランコをするメンバーに、
危ないことをさせていることが、
申し訳なく感じてきました。
ジャグリングをする大道芸人、
ダンサー、調教師、みんなに
合わせる顔がないような気がしました。
そして、動物たちにも
申し訳ない気持ちになりました。

家族同然でやってきた仲間です。
憎しみも親しみも、感謝も軽蔑も、
入り混じった関係です。
だからこそ本当の家族のようでした。

「動物たちが素晴らしい曲芸をする、
それを楽しみにお客さんは来てくれる。
動物たちがいなくなれば、
お客さんはがっかりするに違いない。
そうなれば、売上も減るだろう。
あっという間にサーカスは続けられなくなる。
それでも動物たちを解放したほうがいいのか」

ひとことで言えば、
サーカスは弱いのでした。
いっぱい叱られても
顔を上げてられるほど、
サーカスは強くないのでした。

チョンボもずっと考えていました。
チョンボは物心ついた時から、
このサーカスにいるのです。
サーカスが、このテントが、
この鉄の柵のある檻が、
チョンボの居場所なのです。
ジャングルに帰りたい。
そんなことを考えたことは
ありませんでした。
サーカスの象であることが、
チョンボの誇りなのです。
だからこそ団長さんの気持ちも、
痛いほどわかるのです。

「ボールに乗ったり、椅子に座ったり。
独りだとできるのに、なんでみんなの前になると、
緊張して途端にできなくなってしまうのかしら」

緊張すると、左の後ろ足を、
右の前足で踏んで、
転んでしまうのでした。
緊張すると、長い鼻が
紐のように絡まって、
息ができなくなるのでした。

そんなチョンボは、
ある日、不思議な体験をしました。
檻のすぐそばに、
折れたスティックが落ちていたのです。
それは楽団のドラマーが、
練習中に折ってしまった
ドラムのスティックでした。

チョンボは、その棒を
器用に鼻でつかみました。
それから、じっと考えました。
そうしてふと。
そのスティックで
鉄格子を叩いてみたのです。

カーン。
短く綺麗な音がしました。
チョンボは、じっと耳を澄ましました。
音が切れても、
まだ耳に残っている感じがしました。
今度は、スティックを
横に動かしてみました。

カラカラカラ。
何本もの鉄柵がスティックに当たり、
乾いた良い音が檻の中に共鳴しました。
早く動かしてみると、
カラカラカラと鳴りました。
ゆっくり動かせば、
カラ、コロン、カラと鳴りました。
チョンボは、鉄の柵を足で
さすりながら、音を鳴らしてみました。

カラカラコロコロ、コロロン。

足の位置を変えると、
音が変わるのでした。
チョンボに、
何かが起きようとしていました。
大袈裟に言えば、
運命が変わる音がしたのでした。

その夜。
コオロギに合わせて、
チョンボはまた檻を叩いていました。
そこに団長さんがやってきました。

「なにをそんなに夢中なのかね」

チョンボは鼻を止めました。
そして、じっと
団長さんを見つめました。
団長さんも、チョンボを
見つめていました。
チョンボは突然のことに戸惑いました。
でも、いつかこの時が来るのを
待っていたのです。
チョンボは団長さんに
伝えたいことがありました。

カラコロカラ。コロロ、カラコロリン。

丁寧に三度、叩きました。
チョンボの首は大きく
三回、揺れました。
団長さんは黙って、
その音を聞いていました。
言葉は嘘をつきますが、
音は嘘をつかないのでした。
団長さんは胸を打たれて、
言葉を失ってしまいました。

「ごめんなさい。わたし、頑張るから」
と伝わったのでした。
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2017.06.19 「第2話」

サーカスの動物どうしは、
それほど仲良しではありません。
なぜなら、動物はそれぞれに
話す言葉が違うからです。

クマならクマの言葉、
パンダならパンダの言葉というように、
それぞれ違っているのです。

それに多くの動物は、人間と
同じように気持ちはあるのですが、
それを言葉という道具を
使っては表現しません。
身振りだったり、
仕草だったりで表現するのです。

みなさん。
言葉というのは便利なようで、
非常に厄介な道具だと思いませんか。
たとえば、言葉では
「嫌い」と伝えているのに、
本当は好きで好きでたまらない。
あなたにもそういうこと、
あるでしょう。

人間の言葉の
厄介なところで、それゆえに
愛おしいところですがとにかく。
動物たちはもっとシンプルに、
もっと情熱的に生きているのです。

サーカスの動物たち、そして
サーカスのスタッフは仲良しです。
スタッフは、動物たちに根気良く、
何度も何度も繰り返し接します。

上手に芸ができれば褒めます。
そして、頬を寄せ餌を与えます。

言うことを聞かないとき、
鞭を打つこともあります。

それは虐待だと、指摘、
糾弾されていますから、
いまは、むやみに叩いたりせず、
なるべく言葉を使います。
でも言葉は、所詮、
人間の言葉なのです。
まぁ、なににしても、サーカスの芸を
動物に仕込むということは、
どちらにとっても
気の遠くなるような根競べなのです。

動物もスタッフも、
互いに信頼してなくては、
成り立つことのない世界です。
鞭を打てば言うことを聞いてくれる
というものではないのです。
ところが、象のチョンボのように、
サーカスに来て5年。
一向に芸を覚えることのない
動物がいるのですから、
果てどうしたものかなのです。

「ただニコニコと歩いているだけでは、
ダメなんだよ」と。
チョンボは団長さんに注意されてから、
毎日、どうしようかと考えていました。

ほかの動物のように、玉乗りをしたり、
お兄さんを鼻に乗せ二本足で歩いたり。
丸い椅子の上で逆立ちをしてみせたり。
「わたしもそうなりたい」、
心の底からそう思うのでした。

だけど。
チョンボに声をかける
調教師さんはいませんでした。
チョンボは何の芸当もできない象だと、
ここでは、そーゆーことに
なっているのでした。

大人しくていい象じゃないかと、
調教師さんはみな
そう思っているのです。

でも、2年前のこと。
調教師さんたちが集まる会議で、
こんな議論が
交わされたことがあります。

「チョンボはチョンボのままでいいのか!?
いいわけないじゃありませんか。
ここはサーカスです。
そんな風にみなさんが甘やかすから、
いつまで経ったって、あいつは、
なんにもできないままなんですよ。

ひっぱたいたって、ぶん殴ったって、
芸を仕込んでやらなきゃ、
可哀そうなのはチョンボなんだ。
なぜならサーカスにいる象なんです。
ここは野生動物が暮らすジャングルじゃないんです。

テントを出れば、ネオンやデパート、
遊園地が立ち並ぶ、
「歓楽街」なんですっ。

お客さんは都会の生活に疲れている。
そんなとき、特別な気持ちになりたくてここに来る。
安全なところから、
危険な空中ブランコに挑んでいる
特別を見たいんですよ。

ところがそんなところに、
ただぼーっと歩くだけの
象がいたらどうですか。
まるで背広を着てのそーっと歩いている、
自分を重ねてしまうかもしれない。
うんざりするほどの現実を生きていることを思い出してしまう。

なんで金を払ってまで、
そんなもんを見なくちゃいけないんだと、怒り出してしまう。

チョンボを何とかしなくちゃならないのは、
サーカスとして理の当然。
チョンボは、チョンボのままでいていいはずがありませんっ」

チョンボは特訓を受けました。
ボールに乗ったり、
二本足で歩く練習をしたり。
何度も何度も、褒められたり、
叱られたりしながら、
特訓をしたのです。

チョンボは誰かが見ていると、
慌ててしまう性格です。
ボールに片足ずつ
足をかければいいところを、
慌てるから両足をかけてしまう。
もちろん大きな体は音を立てて、
転んでしまう。
調教師さんのため息が、聞こえるたび、
視線が、痛く刺さるたび、
チョンボは心臓がキュンとし、
頭が真っ白になりました。
たまらない気持ちになりました。

砂の上に転んで上を見上げると、
無数のカラフルな電球が、
ぼんやり霞んで見えました。

イエローのライトは
バナナの房に見える。
ピンクのライトは
フラミンゴの群れに見える。
コバルトブルーのライトは、
子供たちの大好きな
キャンディーバーに見える。
パープルのライトは、
ママの瞳に見える。
どれも懐かしく、
甘く優しい気持ちになって泣きました。

チョンボは自分の置かれている
現実を、わかっていなかった
わけではありません。
わかっていたからこそ
できないのでした。

チョンボは夜になり、
誰もいない暗闇の中で、
こっそりと、ゴムのボールに
足をかけやってみるのでした。

「ゆっくり、慌てないで」。

チョンボはできるのです。
玉乗りも、二本足で歩くことも、
だれもいない部屋ならチョンボは、
チョンボではしないのでした。

だけど。
みんなの前になると、
相変わらずのチョンボでした。
やがて調教師さんはだれも、
チョンボに芸を
仕込もうとしなくなりました。
あれから2年が経ち、いまチョンボは、
ひとつの決心をしたのでした。
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2017.06.12 「第1話」

チョンボは女の子の象です。
アフリカの草原からサーカス小屋に、
連れてこられました。
うんとうんと小さい時のことなので、
よく覚えていません。

チョンボは、
サーカスの動物たちのなかでも、
とびきり愛くるしかったので、
歩くだけで、
「ねぇみてママ可愛いよー」と、
拍手してもらえたのでした。

だけど、チョンボは
いまや小さくないのです。
歩くだけでは
拍手なんかもらえないのです。
なにかみんなを、
うわーって、驚かせたり、
すごーいと喝采させたり
しなくてはダメ。
このままではサーカスに居られない。

そう考えると大きな体のチョンボは、
小さな心臓が、
キュンと痛くなりました。
明るくて無邪気だったチョンボは、
この頃、すっかり
ションボリなのでした。

(ここに居てはいけないのかもしれない)。
不安が日に日に募りながらも、
どうしていいかわからず。
大きな体で道化をして
みせたりするのでした。

近年、サーカスは
お客さんが減っています。
子供たちはもはや、
サーカスに夢中ではありません。
おうちでゲームをしたり、
遊園地に行ったり、テーマパークへ
出かけたりしているのです。

サーカス、とりわけ動物ショーは、
「動物虐待だ、けしからん」と、
快く思わないヒトたちに
叱られてばかりなのでした。

ひげを生やし、
真っ赤なスパンコールをまとい、
いつも威張っている団長さんですが、
ステージの袖では頭を抱え、
小さくため息ばかりつくのでした。

パンダや、ライオン、トラ、
なにより象のエサ代を
どう捻出したらいいのか。

ちなみに団長さんは
長い口ひげをたくわえていますが、
ロングハットを外すと
頭はつるつるに剥げています。
団長さんの髪の毛は
ひとつの心配ごとのたび、
100本抜けるシステムだそうです。

団長さんのもとに、
「動物を虐待するな、恥知らず!!」と、
抗議の電話がかかってくるたび、
ごっそり毛が抜けるのです。

かつて毛がふさふさだったころの
団長さんは、黒い受話器を握りしめ、

「ワタシタチは虐待なんかしていませんヨッ。
ワレワレは動物を愛していますっっっ。
じゃなきゃ、じゃなきゃ、あーたねー」

途端に涙声になり。

「あの大きな、大きな象がね。
小さな、あんな小さなボールに、
ちょこんと乗れるはずが、ないじゃありませんか」

と言い返していました。
けれど今は、
「はい、すいません、以後善処いたします」
と薄い頭の無表情で
言うだけになってしまいました。

チョンボは、ションボリでした。
わたしはわたしのままでは、だめ、
といつも思っていました。

そんなある日、
団長さんは、ショーの後、
チッピーに話しかけました。

「チッピー。君はここに来て何年になる?」

そしてチッピーだけでなく、
チョンボにも言いました。

「チョンボ、君はここに来て何年になる?ん?」

団長さんは、少し怖く言いました。
チョンボは頭が真っ白になりました。
チッピーはとぼけた顔をして、
高い天井に吊るされた
ライトを見つめました。
チッピーが来たのは
前の申年でしたから、
7年前になります。

チョンボは、わかりました。
チッピーは悔しくて、哀しくて、
本当は心で泣いているのを。
チッピーは、バナナを食べながら、
ただ二本足で歩くだけ、
驚くような芸当は、
何ひとつできませんでした。

動物は人間のように、
大きな声で笑ったり、
流れる涙をハンカチで
ぬぐうことはできません。
ただ、顔を上げたり下げたり、
それくらいのことくらいしか
できないのです。

でも。
だからと言って、
心の中は、人間と同じ、
いや、人間なんかよりも、
ずっと繊細で敏感なのです。

「今のままでいいのかい?
ただ、歩いているだけで君はバナナをもらっている。
そしてチョンボ、あなたもだ。
あなたは、どれだけたくさんのバナナ、
林檎を毎日食べているだろうか」

チョンボの心臓は、
もはや針で刺されたも同然でした。

「一か月にどれだけのバナナを食べているか。
それはすべて、お金なんだよ。
そういうことを、考えたことがあるかい?」

お金のことは何度か考えてみましたが、
難しくてわかりませんでした。
10の次が100という理屈が
どうにもわからないのです。

ただ、たくさんのバナナを食べている。
チッピーなんかより、ずっとずっと
わたしは食べてしまっている。

そう思うと、
チョンボはやりきれなくなり、
細い目から涙があふれ出しました。
ぬぐうこともできないチョンボの涙は、
足元の乾いた白砂に、
黒いまだらの模様を描いたのでした。
その模様は見ようによっては、
象のシルエットに見えるのでした。

サーカスで働きながら、
みんなの役に立てていない。
いや、むしろ、邪魔になっている。

この世にある哀しみの中で、無力こそ、
針のような痛みをともなう
哀しみはないのです。

チョンボの涙は砂を濡らし、
シルエットはすっかり消え、
その様は真っ黒な心の闇、
チョンボの心の中のようでした。
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