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Die Kreuzungsstelle
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Voices of half-Japanese(haafu), mixed race/multiracial or multiethnic persons. 交差点な人たち(ハーフ、ダブル、ミックス等と呼ばれる人たち)の「声」
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「言葉をめぐる衝突を避けるには」(2006年11月11日執筆)

 言葉は、単なる単語の組合せではなく、そこで生まれる文脈も考えなければいけないものです。ある単語について誤解が生じやすいのは、その単語の置かれる文脈に注意を払ってないからなのです。

 「外人(ガイジン)と言って何が悪いのか?自分は否定的な意味合いでは使ってないのに・・・」

 例えば「外人(ガイジン)」という単語を問題にするとき、そう指摘されたことに困惑する人は、しばしばこのように主張します。そして、問題視する人としない人の間で相互に理解しえないとき、激しい衝突が起こることもあります。

  ある人にとって何の疑問もなく使っている単語も、別の人にとっては異なった意味を持っているものです(「自分の常識は、他人の非常識」)。単語の意味は、その単語の中に既にあるのではなく、その単語が置かれる文脈に左右されています。

 知らない単語に出会い、その意味を知りたいとき、学校では辞書を引くように教わります。しかし、もしその単語が辞書にない場合、その単語の意味はどうやったら身につけることが出来るのか?

 そのようなとき重要になって来るのが文脈です。文脈を考えれば、ある単語がどのような意味で使われているか、おおよそ検討がつきます。

 これは、言葉を全く知らない幼い子どもが、言葉を身につける過程を考えればわかることでしょう。言うまでもないことですが、言葉を知らない子どもは辞書 を引くことが出来ないため、親など周囲の人が行なう動作の説明や会話から単語の意味を身につけるしかありません。子どもはそうやって文脈(状況)から単語 の意味を学んでいくようです。

 「外人」という単語を否定的な意味合いで使われた経験のある人は、その経験の中で単語の意味を理解しています。例えば私のように「外人(ガイジン)」という単語を「害人」として捉えていた(いる)ように。

 また、別の人は「外人(ガイジン)」という単語を「鼻が高くて、金髪で、目の色が青い人」に使うものだと理解している人もいるでしょうし、髪の毛の色が 黒以外の人、顔の作りが自分の住んでいる地域の多くの人と少し異なっている人、そういう人を指す単語が「外人(ガイジン)」だと理解している人もいるで しょう。

  「悪気がなく使っている」と主張する人は、「外人(ガイジン)」という単語を、そういう特徴を持った人を指すのだと理解しているため、異議を唱えられると 困惑するのだと考えます。そういう人の中には「外人(ガイジン)に外人(ガイジン)と言って何が悪いのか」と言う人もいます。

  ある単語がなぜ人によっては疑問を感じないものなのに、ある人にとっては嫌悪の対象になるのか。それは、これまで書いて来たように、それぞれの人が経験から学んできた単語の意味が違うからです。

 そのため、ある単語について考えるときは、まずその単語と、その単語を置かれている文脈に注意する必要があります。そうでなければ、いつまで経ってもその単語をめぐる衝突は繰り返されるだけです。

 衝突を避け、相互理解するには、お互いの経験から学んだ単語の意味を理解し合うことです。そして、もし自分以外の人を大事にしたいと思うなら、そしてまた、自分も他の人から大事にされたいと思うのなら、その人が嫌う単語を使わないことでしょう。

 もっとも、ある単語が無くなったからと言って、その単語が置かれていた文脈がある限り、そこには別の新しい単語が入って来ます。ある単語の使用を制限し たり、それに代わるものを新しく創ったりしても、文脈が変わらない限り何も変わらないということは自覚しておく必要はあります。

 いずれにしろ大切なのは、相手の気持ちを理解しようとする姿勢、それが衝突回避、相互理解への第一歩だと考えます。
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「ハロー」(2005年5月7日執筆)

 「ハロー」、この言葉は「ガイジン(外人)」の次に気になる言葉です。

 小さいときから街を歩いているとよく遠くの方や、後ろから「ハロー」と声をかけられました。この言葉は小学生から高校生くらいまでの人が良く言っていたのを記憶しています。「あっ、ガイジンや」の後に「ハロー」と呼びかけられることもありました。

  近頃はほとんど聞くことがなくなりましたが、この前それを久しぶりに聞きました。それも日本のなかで、いわゆる「都会」(大使館が集まっている場所)で。 そのとき呼びかけられたのは自分自身ではなく、髪の毛が明るく、顔の彫りが深めの小学生くらいの男の子。その言葉は近くの高校に通っている女生徒から発せ られたものでした。

  以前、自分がそう呼びかけられたのは出身地(いわゆる「田舎」と呼ばれる所)だったため「まぁ、ここは田舎だから仕方がないか」と軽く流せました。しかし、今回は「都会」と呼ばれるところ。

  「ハロー」は親愛の情から来るものだと言う人もいるでしょう。また、興味を示してるだけのことでは?と言う人もいると思います。しかし、よく考えてみて欲 しいのですが、街で見ず知らずの子どもに「コンニチワ~」と遠くの方から、また背後から声をかけることはあるのでしょうか?

 好奇心があるのはいいことです。親愛の情があるのもいいことだと思います。しかし、もし相手が髪の毛の明るい色の子でなかったら、はたして「ハロー」と言っていたのでしょうか?

 はじめて「ハロー」と言われて20年(記憶では)、変わったところもあるけど、変わってないところもあるのだと実感した今日この頃でした。
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「他国人」(2004年12月6日執筆)

 言葉は不思議なものです。それは同じ言葉でも人によって使い方が違うからです。自分では何とも思ってない言葉で、人を不愉快にさせることがあります。ひとつの言葉で“使う側”と“使われる側”の受け止め方が違うとき、このようなことが起こります。

 また、自分が何気なく使っている言葉でも、他の人が別の気持ちを込めて使っていることがあります。自分が親しみの気持ちを込めて使った言葉でも、他の人が疎ましい気持ちを込めて使っていることもあります。

 自分が何気なく使っている言葉でも、前に疎ましい気持ちを込めて使われた人にとってその言葉は、苦い経験を思い起こさせる「鍵」となります。その「鍵」 は心に働きかけるため、誰にも見ることができません。見ることが出来ないため、誰もそれに気づくことが出来ないのです。しかし、中にはその「鍵」に気づく 人がいます。そして、その中でも思いやりの心を持つ人は、その「鍵」を取り換えることを思いつきます。苦い思い出がよみがえって来ないように、前の「鍵」 を使わないようにします。

 しかし、この「鍵」がなくなっても疎ましい気持ちは変わりません。ある人に疎ましい気持ちを抱いている人は、新しい「鍵」でも前と同じ事を繰り返しま す。「鍵」は「鍵」ですから、それを換えても人の気持ちまでは変えらないのです。「鍵」を取り換える、すなわち「言葉」を変えるだけではだめなのです。多 くの場合、問題は言葉ではなく“気持ち”なのですから。

 ところで、もし「鍵」そのものにトゲがある場合ならどうでしょうか?もともとの「言葉」にトゲがある場合は、「鍵」の取換え、言葉を換えることには意味があると思います。トゲのある「鍵」は使いにくいだけですから、換えた方がいいと思います。

「外国人」や「外人」は、そういうトゲのある言葉のひとつだと思います。その理由を、言葉の“オト”と“字”についてみることで説明しようと思います。

 まず、「がいこくじん」や「がいじん」の両方に共通する「ガイ」という“オト”ですが、これはあまり良い印象を与える“オト”ではないと思います。ま た、「ガ」の一音も、あまり良い印象を与えるものではないと思います。一度ためしに「ガイ」や「ガ」という音を口に出して言ってみて下さい。この音を聞い て頭の中に浮かぶものは、あまり良いものではないと思いますが、いかがでしょうか?

 次に「外」という字です。この字は「ガイ」のほかに“そと”という読み方があります。“うち”ではない“そと”を表す字として「外」は使われます。この “うち”という言葉ですが、これには「内」という字だけでなく「家」や「中」の字が使われます。これらの字をあてるところを見ると、“うち”と“そと”の 関係が見えて来ると思います。

 言葉が先か心が先かはわかりませんが、言葉によって人の心が保たれ続けることもあると思います。閉鎖的な心を表現した言葉や文字によって、閉鎖的な心が受け継がれていくことも考えられます。

 私は自分の住む国ではないところを示すのに「外国」という言葉を使う必要性はないと思います。響きも好ましくないと思われ、また閉鎖的な心を表現していると思われる言葉に、固執する必要はないと思います。

 そこで、これからは「他国」という言葉をいま以上に使っていくことを提案します。また、自分が住む国と違うところから来た人を「他国人」と呼ぶことも提 案します。もし、この言葉が「長い」「言いにくい」という思う場合は、その省略形を使えばいいと思います。「他国人」の省略形、それは「他人」です。「自 分」以外は誰もが「他人」なのですから、この言葉は違和感なく使えると思います。

 「他国」と「他国人」、これからはこの言葉を使って行くというのはどうでしょうか?
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「もう聞き飽きた!」(2002年10月2日執筆)

 私が通っていた中学校には「弁論大会」というものがありました。それは毎年五月頃に各クラスから選出された1名の代表が、自分の学年の集会で作文を発表 するというものです。1年生のとき、私はクラスの代表としてその弁論大会で作文を発表する機会を得ました。そのとき発表した作文の題が「もう聞き飽き た!」です。

 私は学年全員の前で「どうして外人と言われないといけないのか」という趣旨のことを作文に書いて発表しました。このとき私が主張したことが、どれだけの 人に伝わったかはわかりません。しかし、それまで心の中に仕舞い込んでいたことを声にして言ったことは、私にとって大きな意味がありました。

 今では、街を歩いているだけで「外人」と言われることはほとんどありませんが、「外人」という言葉はまだ耳にすることがあります。

 「アメリカは外人ばっかりだから疲れたよ」これは、アメリカ(合衆国)から帰ってきた知人が前に言っていた感想です。これを聞いた当時は「何を言ってい るのだろう?」と思いました。私は「外人」とは「外国人」の略語だと考えていて、「外国」へ行ったら誰もが「外人」になると考えていました。だからこの感 想には正直驚きました。しかし、私はこの会話から「外人」が抵抗感無く使われる理由のヒントを得ました。

 「外人」が抵抗感無く使われるのは、この言葉が「アメリカ市民」の意味として使われているからなのでしょう。そして、この「外人=アメリカ市民」という 考えは彼だけが持っているのではなく、多くの人が同じように考えているのではないでしょうか?だから誰も気付かないのです、この言葉がどれほど多くの人に 不快な思いをさせているかということを・・・。

 今では言葉にして言う人は少なくなりましが、「外人=アメリカ市民」と思っている人はまだいると思います。そろそろ「外人(外国人?)=アメリカ市民」 という考え方から卒業してもいいのではないでしょうか?そしてまた、外見が周りと大きく異なる人を「外人(ガイジン)」と呼ぶことから、卒業してはどうで しょうか?
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「外人(ガイジン)という言葉」(2002年9月19日執筆)

 「外人」という言葉は「外国人」を省略した言葉だと一般的には考えられているのではないでしょうか?少なくとも辞書にはそう書いてあります。けど、この言葉はある特定の人たちを指して使われていると思います。

 みなさんは「外人顔」という言葉を聴いたこと、また使ったことはありますか?「外人顔」とはいったいどんな「顔」なんでしょう?この言葉を聞いた私の感 じでは「顔のホリが深い」ことを「外人顔」というように思います。ここで疑問に思うのですが、日本人以外は全て顔のホリが深いのでしょうか?

 それは違いますよね。「外国人」でもホリが深くない人もいます。「外人顔」というときの「外人」とは、メディアなどで顔のホリの深さが目立っていた人たち、つまり白人と言われる人達のことを指す言葉だと思います。

 「外人」という言葉を私は小さい頃から耳にしてきました。町を歩いていると「あっ、外人だ!」とよく言われたものです。大きな声で言わない人でも、友達との会話の中で「外人がいる」などと話しているのを聞いて来ました。

 小さい頃から言われ続けることにより、いつしか私には「外人」という言葉が「害人」と聞こえてくるようになりました。誰も悪意があって言っているわけではなかったのでしょうが、私にはこの言葉はとても悪意のある言葉に聞こえます。

 今でも「外人」という言葉を耳にします。つい最近も小さな子供に「外人」と言われました。昔ほどではないですが、今でもこの言葉を聞くと嫌な気持ちになります。「外人」という言葉は私にとって特別な意味を持つ言葉です。

 「外人と言ったらどうしてだめなん?」と以前言われたことがあります。その人には「外人って言葉は私の嫌いな言葉なんだ!」と言いました。けど、そんな 説明では多くの人は納得しませんよね、個人的な好みの問題になってしまいますから。ではどう答えれば良かったのでしょう?どうすれば誰もが「外人」という 言葉を使わなくなるのでしょうか?
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「かわいそう?」(2005年10月10日執筆)

「いま、幸せですか?」

 これは以前、「ハーフ」と呼ばれる立場から来る経験を話したときに聞かれたことです。この質問は「子供が“かわいそう”だから」という理由で結婚を反対 されている人からのものでした。国際結婚から生まれた子供は色々な悩みを抱えるから「かわいそう」、それがこの発言の根拠なのかもしれません。

 私は物事を考えるのが好きな性格のため、色々なことを考えます。高校生の頃、「自分はナニ人か?」という、まるで「出口のない迷路」のような疑問につい て考えていたときには「どうして、こんなことで考えなければいけないのか」「もしかしたら考えているのは自分だけではないのか」と思ったことがあります。

  しかし、色々と経験を積んでいく中で、誰もがその内容は違うけれど何らかの悩みを抱えていることがわかりました。「自分はナニ人か?」ということで悩んで いた友人は周りにはいませんでしたが、それぞれ自分が向き合っている現実に対処するために様々なことで悩んでいました。

 人はそれぞれの与えられた現実と向き合って生きていると思います。「ハーフ」と呼ばれるというのも、ひとつの現実です。例えば「自分はナニ人か?」とい う問題は、それを考えた事のない人には大変な悩みに思えるでしょうが、考える機会が与えられ、そして自分なりの結論に至った人には「思春期の悩み」のよう に、人生の通過点として受け止められる、自然な悩みとなると思います。

 「子供が“かわいそう”だから結婚は反対だ」と周囲に言われ、そしてその意見に同調して結婚を諦める人もいるかもしれません。結婚しても子供を産まない 人もいるかもしれません。しかし、もしそれで子供を産み育てないのであれば、それは「ハーフ」と呼ばれている人を、その“存在を否定”することになってい ると思います。「“かわいそう”だから結婚しない・子供を産まない」と考える人には、その考えにこそ問題があるのだと、早く気づいてもらいたいものです。
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「ドイツに、行く?帰る?」(2005年3月14日執筆)

 「今度は、いつドイツに帰るん?」

 小さいときから私は友達にこのように聞かれることがありました。そう聞かれる度に「ドイツへは“行く”んや」といつも訂正していました。なぜなら、私にとってドイツは里帰りする母に着いて“行く”場所であって、自分が“帰る”場所ではないからです。

 なぜ“行く”と“帰る”の違いにこだわるようになったのかは自分でもわかりません。「ドイツに帰れ!」と子どもの頃に言われた記憶はありませんが、実際は言われたことがあり、それでこだわるようになったとも考えられます。

 「ドイツにいつ帰るん?」と言われると、まるで「日本から出て行け!」と言われているような気がします。もちろん、この質問をする人は「出て行け!」と いうつもりでは言ってないと思います。しかし、無意識のうちに出て行ってもらいたいと思っているとも考えられます。そのような「無意識の排他性」は、いま でも時々感じることがあります。

 私は日本で生まれ、日本語を第一言語として育ち、ほとんど日本から離れたことはありません。ドイツに“行く”のも海外旅行と同じ感覚です。それにも関わ らず、いずれ“帰る”人のような扱いを受けることがあります。そういうとき、自分がどこに所属しているのかわからなくなります。

 自分の所属するところを、“帰る”場所をわざわざ証明しなければならないのはなぜか?「無意識の排他性」を感じる度に、そういう疑問が浮かび上がって来ます。
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「思い出に残る旅」(2003年2月7日執筆)

 「君ってハーフ?どことのハーフなん?」と初対面から質問する人と、私はなるべく付き合わないようにして来ました。

 私には「親友」と呼べる友達はいます。家族を除くと、私が心から信頼できるのは彼らだけです。街を歩けば「ガイジン」と言われ、初対面の人からは自分の 出生に関する数々の質問をされてきたため、私は友人たち以外を信頼することはありませんでした。多くの場合、そのような質問をしてくる人は私の外見的特徴 だけにしか興味を示しませんでした。そのような人と付き合わなくていいように、不愉快な思いをしなくていいように、私は防衛線を張りました。それが“よく ある質問”をするかしないかです。

 私の趣味は自転車でツーリングをすることです。5年前に自転車ツーリングを始めたときから、いつか日本諸島(四島)を自転車で一周したいと思っていまし た。今から3年前、その目標の第一歩として選んだのが四国でした。地図上で一番面積が小さかった四国を、私は最初の目標にしました。

 旅の出発点は、香川県の高松市でした。出発の日は朝から雨が降っていましたが、雨具を着て高松市から徳島市まで走りました。

 二日目の朝はとても寒く、私はテントの中で朝食を食べました。朝食を食べ終え、外に出てテントを片付けようとしたとき、二台の小型トラックが近づいて来 ました。そのトラックに乗っていた人たちは工事関係の人でした。私がテントを張った近くが作業現場だったので、私は邪魔にならないように急いで出発の支度 を始めました。私が支度をしていると、二台のうちの一台がどこかへ走り去り、また戻って来ました。そして中からおじさんが出てきて
 「兄ちゃん、朝はもう食べたのか?これやるよ」

と言って、メロンパンと温かい缶コーヒーをくれました。出発直前だったので、私はそれをすぐには食べずに持って行くことにしました。後で飲んだコーヒーは、少し温かかったような気がします。もう冷めていたんですけど・・・。

 三日目、私は高知県に入りました。徳島県の南部からアップダウンの激しい道を走って来たので、平地が多い高知の道はとても走りやすかったです。この日は室戸岬の近くの砂浜にテントを張ることにしました。

 四日目は朝から雨でしたが、日数が限られた旅でしたので休むわけにはいきません。雨の中を走るのは、晴れの日の倍の体力を消耗します。それでも走ることを決めた私は、その日の目的地を高知県の窪川にしました。

 雨のため速く走れず、窪川に着いたのは暗くなってからでした。初めての土 地だったので、どこにテントを張ったらいいかわかりませんでした。暗い中しばらく走っていると、小さな川を偶然みつけました。そこはテントを張るには良い 場所ではなかったのですが、とにかく休みたかったので私はそこにテントを張ることにしました。

 テントを張る準備を始めようとしたとき
  「そんなとこで寝るくらいなら私たちの家に来なさい」

と近くを通りかかったおじいさんに言われました。このとき私はとても疲れていたので、その申し出を受けることにしました。奥さんと散歩中のその人は、私がおかしな場所にテントを張ろうとしたのを見て、家に招くことにしたのだと後で話してくれました。  家に行って晩御飯をご馳走になっているとき、近所のおばあさんが遊びに来ました。そのおばあさんを交えて色々話をしているとき、その人は私に言いました。

「あなたがこの人達と出会えたのは、あなたの普段の行いが良かったからですよ」

と。私はここに来るまで、追い抜いたお遍路さんや出会った人には必ず挨拶をしていました。“普段の行いが良かった”というのは、このことだと思いました。

「親切にして貰えたのは、お遍路さんに挨拶をしてきたからだ。心を開いて人と接していれば、必ず誰かが助けてくれる。この人たちに出会い、そして助けて貰えたのは、心を開いたからなんだ」

と、私はこのとき思いました。
 その六日後、私は旅を無事終えることが出来ました。高松市から高松市までおよそ1300キロの行程を、途中少し自転車が故障したりしたものの、十日間で無事に走ることが出来ました。

 この旅で会った人は、誰も私に「ナニ人?」とか「ハーフ?」とか聞きませんでした。「どこから来た?」と出身地(都道府県)を尋ねるだけで、それ以上の ことは何も聞きませんでした。こんな経験は、生まれて初めてのことでした。生まれて初めて、誰にも「ナニ人?」と聞かれなかったのです。

 多くの人に助けられたから、私は無事に旅を終えることが出来ました。

  「人は生きているのではなく、生かされている」

 この旅を通して私はそう思うようになりました。今では「君ってハーフ?どことのハーフなん?」と初対面から質問する人とでも私は付き合うようになりまし た。はじめから人柄を決め付けるのではなくよく付き合ってから人柄を判断するようになりました。私の考え方や人の見方を大きく変えた旅、それが四国の旅で した。
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「『ハーフ』はイジメられるのか?」(2002年12月15日執筆)

 「イジメられたことある?」と最近よく聞かれるようになりました。「どうして?」とその理由を尋ねると「テレビで言ってるから・・・」と答えが返って来ます。

 私も「ハーフはイジメられる」という印象を受ける番組を見たことがあります。そのような番組に出ていたのは「ハーフ」であることを悩んでいる人が大半で した。悩んでいる人が言うのだから、多くの人は「ハーフ」がイジメの対象になるという印象を受けるでしょう。しかし、実際はそうではないと思います。 「ハーフだから」という理由だけでイジメられるほどイジメは単純なものではないと思います。

 人付き合いがうまく出来なかったとき、「ハーフだから・・・」と私も考えたことがあります。けど、それは「ハーフ」を理由に逃げていただけなのだと後で 気付きました。自分が人との間に壁を作っていたのを、「ハーフ」だから人が自分との間に壁を作っているのだと勘違いしていたのです。実際に壁を作っている 人はいましたが、それは「ハーフ」であることと関係がなかったのだと思います。

 たとえイジメられているといっても、それは「ハーフ」という理由だけでイジメられているのではないと思います。イジメの原因を全て「ハーフだから」とい う考えを持つと余計にイジメられるでしょうし、イジメに負けてしまいます。「ハーフ」であることから逃れることは出来ないのですから「ハーフ」を理由に、 自分の生まれを原因にしてしまうと、人生がツライだけのものになってしまいます。

 「ハーフ」だからイジメられる時代はあったのだと思います。小学生のとき、私も「ハーフ」であることをネタにされたことはあります。けれども、私はそれ をイジメとして受け止めたことはありませんでした。自分のことをネタにされて嫌がる人もいますが、ネタにされることとイジメられることは違うことだと思い ます。

 何をイジメとして、何をイジメとしないかはとても難しいことです。イジメたつもりはなくても相手がイジメられたと思うと、それはイジメになってしまいま す。そこがイジメの難しいところでしょう。「ハーフ」であることをネタにされてイジメられた思う人もいれば、そう思わない人もいます。「ハーフ」であるこ とがイジメのきっかけになることもあるでしょうが、「ハーフ」なら誰もがイジメられるということはないと思います。
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「よく聞かれること」(2002年9月19日執筆)

 「お父さんかお母さん、どっちが向こうの人?」「英語話せる?」「君ってハーフ?」etc.

 私はこのような質問を小さい頃から何度もされ、そのたびに同じことを繰り返し答えてきました。小さい頃はそれほどイヤではなかったのですが、小学校の高 学年頃から中学生・高校生の頃はこの質問をされるのがとってもイヤでした。「どうしてそんなこと答えないといけないのか」とずっと思っていました。この質 問をする人は聞く前に考えたことがあるのでしょうか、私が何回同じ質問に答えてきたかということを。

 しかし「彼・彼女らは悪意があって聞いてくるわけではない、ただ興味があるだけなんだ」と気付いてからは普通に答えるようにしています。この質問に対する答えは今では持ちネタの一つ、会話のきっかけになる便利なネタになりました。

 それでも時々思います、「いつまでこの質問に答えないといけないのだろう?いつまで両親のことを初対面の時から聞かれないといけないのだろう?」と。

 私は今まで人に「お父さんはどこの人?お母さんはどこの人?」と聞いたことはありません。それは聞く必要の無いことだからです。大学で会った人には「何 県出身?」と聞いたことはありますが、両親のことは聞きませんでした。日本に住んでいたら両親がどこの出身でも同じこと。なぜなら、みんな同じ「日本人」 だからです。そういう意識があるから私も初めて会う人に両親の出身地を聞きませんでした。そう考えると、両親のことを聞かれる私は「日本人」と認められて いない気がします。

 以前どうやったら「日本人」になれるのか?ということを両親ともが日本国籍の人(=「日本人」?)と話したことがあります。その人は「自分が日本人と思えば日本人になれる!」と言っていました。

 はたしてそうなのでしょうか?自分がいくら「日本人」だと主張しても、外見や国籍が違うことを理由に「日本人」でないとされてしまう、それが今の日本の現実ではないのでしょうか?もしかしたら、それが世界の現実なのかもしれません。

 これからも私は「お母さんかお父さん、どっちが向こうの人?」というような質問に答え続け、そしてそのたびに「いつまで同じ質問に答え続けないとだめなんだ」と思うことでしょう。
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