Profile cover photo
Profile photo
中井深雪
About
Posts

Post has attachment
Add a comment...

Post has attachment
これは久々にかなり興味深い記事でした。
日本人に「恥」という「モラル」がなかったら、あの震災後の国民的行動はなかったことでしょうね。
まだまだいろいろと言いたいことが頭をめぐりましたが、まとまりそうにないのでとりあえず、+1してシェアしたいと思います。
Add a comment...

Post has attachment
今日、報道ステーションで、山中教授とiPS細胞の特集を見ました。
アメリカだと、日本の50倍もの寄付や研究への投資が集まるのに、日本では、山中教授の研究所の200人の研究員のうち、180人の処遇に頭を悩ましていて研究どころではなくなってしまいそうだ、というお話でした。
山中教授は私と同い年です。彼が日本人だということにものすごい誇りを感じます。

その特集が終わったとたん、他の局の番組では、NK細胞の話をしていました。
最近、この2つの細胞の話が、とってもホットだと思いませんか?

日本ではどうして、素晴らしい研究に寄付や投資が集まらないのか。
それは、どうやら、寄付や投資で研究にお金が流れるのを阻止してできる限り税金として納めてもらおう、という役人たちの権益が邪魔をしているためらしいです。
もし、国に税金を払ってもどうせろくなことに使わないんだから、もっと別の、たとえば応援したい企業・団体や、支援したい研究に、「税金の代わりに」寄付や投資をすることが認められるというしくみができたら、日本のこの宝の持ち腐れのような社会システムは、意外と簡単に変わるかもしれないよ、と教えてくれた人がいました。

そんな世論が高まらないかなぁ…って、つくづく思いました。
Add a comment...

Post has attachment
あけましておめでとうございますG+への投稿は今年初めてです。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

さて、今日は朝ドラの「カーネーション」を見ていてのお話です。

椎名林檎さんの主題歌、♪カーネーション 、朝ドラで最初に聞いた時には、わ~なに?このベタベタした歌は?と、爽やかな朝ドラのテーマソングに慣れていた私にはちょっと違和感がありましたが、やはり毎日のように聴いていると、慣れて、だんだん親近感が増してきますよね。
音楽において、一楽曲の人気と、到達率や個々人の聴取頻度との間には相関関係が明確なことは、おそらく流行歌を売るお仕事をされている方々ならよくご存知のことだと思います。

ところで、年末にようやく、第二次世界大戦が終わったところまでだった「カーネーション」、たくさんの愛する人たちを失って、人生に絶望してしまう登場人物なども描かれています。
大切に守り育てた息子をみな、戦争に送り出して、しかも失ってしまったお母さんたちと、まだ小さな子どもたちを残されたお母さんたちの、終戦後の立ち直り方の違いは、おそらくこのドラマの通り、明らかだったのでしょう。
そんな中、終戦直後の昭和20年大晦日には、すでにラジオで「紅白歌合戦」(当時は少し違う名前だったかもしれませんが)が放送されたという場面があり、主人公の子どもたち、上の2人の娘たちが、♪赤いりんご や♪丘をこえて を競うように熱唱しまくる場面が描かれていました。
よもや負けるなんて思っていなかった戦争に負けて、進駐軍にふるさとを占領される恐怖の中、一家の大黒柱を奪われた女たちは、育てなければならない子どもらを抱えて、落ち込んでいる時間の余裕さえなかった…そんな中、美空ひばりさんや藤山一郎さんの歌(声)が、終戦後の復興を支えるエネルギーになっていたことが想像されました。そして、その気運を高めたのは、他ならぬ子どもたちだったのかもしれない、とこの時私は思ったのでした。子どもたちが元気だからこそ、母たちは頑張れたのではないか、と。
どんな状況下にあっても、子どもを産み、守り、育てるためなら、子どもの笑顔を見るためなら、親はいくらでも頑張れてしまうもの。

震災復興の長い道のりの中、今、何が必要なのかの示唆が、これほどまでに「終戦期」の描写に溢れていると感じることは、この震災の災厄度の高さをも物語っているのでしょうね。
でも、次代をになう子どもたちが元気に飛び跳ね、歌い、踊って遊べるような、そんな雰囲気が環境に戻ってくる、そんな2012年を目指したいです。
Add a comment...

一昨日、高校時代の友人たちとのプチ同窓会で、JICA(国際協力機構)にお勤めの方とお知り合いになりました。少年の頃から冒険好きな人柄だったと同級生たちに語られるその方は、大学では心理学科で行動論を専攻されたそうで、「ユングの共時性は本当に有ると思うか」、といった話で盛り上がりました。(飲み会で話すようなことじゃない(^v^)?)

私は、対象の行動を、社会的規範を基準として是非に分類する、という程度の前提でアプローチしている実践が比較的多いと感じるところですでに、行動分析を主としたアプローチはあまり好きではないので、すぐに「行動分析はキライ」などと、誤解されかねない物言いをしてしまう癖があるのですが、遅れや不適応のある人々が、通常発達の人々と肩を並べて生きていくには、習慣や知識として身につけておかなければならないルールがあることを否定するわけではありません。

ただ、もともと幼児の創造教育を専攻した私にとって、芸術療法においてもっとも価値あると感じているのは、対象の「ファンタジー」をどう共有できるか、というところにあります。
「fantasy」と言うと、心理学用語では「幻想・白日夢」などと訳され、必ずしも良い意味ではないような印象があります。
でも、時間泥棒の物語、ミヒャエル・エンデの「モモ」などに代表される、現代の「fantasy」は、自由奔放な想像力・空想力、それから生まれる作品や発明品、奇抜なアイデア、といった意味を持ちます。
病的な意味で使われる「幻覚(hallcination)」や「妄想(delusion)」とは別のものです。

音楽には、中世の頃にはすでに、「幻想曲(Fantasia)」がありましたし、
音楽そのものには言葉も視覚も含まれていませんから、「想像」から生まれる音楽は、テーマやタイトルがなければ、何を表現しようとしたものか判りません。
けれども、優しさ、強さ、怒り、悲しみ、喜び、といった感情を、私たちは音楽から共通して受け取ることができます。
それらは、表現されたものが「怒り」である、と証明することは、作曲者の「証言」によってしかできませんから、それを知らずに聴いた者たちが一様に同じイメージを心象に映し出したとすれば、そこにはある種の偶然性がある、とも言えるかもしれません。

そして、どんなにネガティブな感情、ダークなイメージであっても、それを他者と「共有」できる限り、「fantasy」であり、「delusion」や「hallcination」ではない、と私は考えています。

言葉で共有するとか、視覚的なイメージで共有することに比べ、音楽での共有には、イメージをより抽象化する力があり、同じ種類の「感情」(音楽は「感情の言葉」と言われます。)として共有することにより、正誤を問わなくて済むメリットがあります。

さらに音楽療法においては、大切なのは、共有した結果、そこに双方向の共感性が生じ、心が軽く、楽しくなる方向へとともに一歩でも動くことです。

もし、対象の心が閉ざされたままで、対象の「fantasy」を共有できなければどうなるのか、というと、対象は、一人でイメージを追求し、やがてその「fantasy」は「delusion」に近くなっていくことがあり得ます。…というか、そうした臨床経験もありました。

音楽療法士の臨床技術には、この「fantasy」の共有能力、ということもとても重要ではないかと思います。

日本の音楽療法の先駆者のお一人である精神科医の松井紀和先生(日本臨床心理研究所 所長/http://mf1.jp/tdyTdE)が、かつて教えてくださいました。


「人間には『fantasy』が必要なんです。あなたは、実際に他人に見えているよりちょっと余分に美しい、と自分のことを思っていたり、ちょっと余分に恋人の愛情は深い、と思っていたりするものですが、それらは『幻想』です。でも、人は、『幻想』なくしては生きてはいけません。」

と。

私はこの先生の影響を実に深く受けました(^^♪。

先日お話ししたかった核心にようやくたどり着きました。

人が変わるためには、精神的に安全な「fantasy」を共有することによる、ある種の「trip」が非常に有効なのではないか、というのがそれです。

「trip」という言葉も、実にいろいろな意味がありますが、俗に言う「trip」の意味というと、「出張を含む小旅行」であり、転じて、
〈俗〉〔麻薬{まやく}による〕幻覚体験{げんかく たいけん}、トリップ
〈俗〉強烈{きょうれつ}[刺激的{しげき てき}]な体験{たいけん}
〈俗〉〔一時的{いちじ てき}に熱中{ねっちゅう}する〕趣味{しゅみ}、関心事{かんしんじ}
            -英辞郎 on the Web  http://eow.alc.co.jp/trip/UTF-8/ より

という意味になります。

アメリカの音楽療法には「GIM」(The Bonny Method of Guided Imagery and Music http://www.ami-bonnymethod.org/) という、初期にはLSDを使って行われたといわれているアプローチ法があり、現在、このアプローチは、専門のライセンスを取らないと使用できないことになっています。
もちろん、現在ではLSDなどの薬物は使用しませんが、今でも非常に人気のあるアプローチ法となっています。

もう、お解りですよね。

薬の要らない「trip」による変容。

これを一時的、あるいは永続的に引き起こせる可能性が、音楽療法の、他の芸術療法とは一味違う力であることを、渡欧を終えて帰ってきて、再開した臨床で、今、私はさらに強く確信し出しています。

ただ、この力は一種の「奇跡」とも受け取れるものにも通じる力であり、仮に対象や構造の前提をすべて等しくしたとしても、同じような結果を頻出させることは不可能でしょうね。

エビデンス至上主義の医療行政と音楽療法が馴染まないのはこのあたりに原因があるのではないのでしょうか。
「奇跡」だとしたら、まったく同じ結果ケースはきっとたった1回しか起きないものです。
1回の成功でもエビデンスとして認める、というドイツとの違いは、ここにもありそうですよね。

ドイツは、いろいろな意味で、スゴ技のある国です。本当に。
Add a comment...

スイス滞在は、私にとって人生初のプチ留学でした
7月から9月まで、3ヶ月日本を留守にするために、音楽療法士という仕事上、クライエントや契約施設のセッションをすべて3人の妹スタッフたちに任せていけるよう、
ほとんど1年も前から、私の役割をすべて3人で分担できるようにするためのトレーニングに拍車をかけて準備しました。
クライエントや施設のスタッフ・利用者さんたちにも、半年前にはお知らせし、ご理解とご協力をありったけ戴いて渡欧したのでした。

それゆえに、私は…もう肩に力を入れる歳ではないのですが、なんとしてもバージョン・アップして帰国しなければいけない、という気持ちを持ち続けてヨーロッパにおりました。

私がいない間の妹スタッフたちの努力と苦労は、おそらくそれは並大抵のものではなかったと思います。
でも、それでも彼女たちは、力を合わせて乗り切ってくれました。
また、何処も同じことだと思うのですが、ある時、頼りにしていたリーダーが不在になるという出来事や時期があったがゆえに、自立に向けた必死の取り組みができるもの、ということもあります。
彼女たちの音楽演奏における技術的な成長もまた、期待を裏切らないものになっていました。

一方、私の方はスイスで、AstridとSonjaという二人の同世代の音楽療法士と出会え、音楽療法士としてのかなりの量の情報交換を行えました。
そして、互いに互いの実践経験の中の共通点や、国の違いによる、教育システム、セラピストとして選び抜いた治療構造の相違点などを確認し合い、私の中で、音楽療法の意味と効果について、15年間の間、「発達論」の視点ゆえにさんざん複雑にも考え、実践してきたものが、一気にシンプル化されたのでした。
それは、音楽療法がすべきこと、音楽療法にできることの再確認となりました。

帰国した私は、プチ引っ越しの片付けは後回しそっちのけで、まずは仕事復帰を順調に果たすことができた…と思います。
そして昨日は、成長した妹スタッフたちの今後のさらなる向上のため、施設でのセッション構造を変えました。
私が戻ったからといって、不在の間にできるようになった事をしなくて済んでしまう状況に後退させることなく、より、対象者の利益になるようなセッションができるようにするためにはどうしたらいいのかと、2週間悩んで考え抜いた新構造でした。
これは、見事に私が想定した以上の効果をもたらしてくれました。
悩んだ甲斐がありました。
その辺のお話はまた、別の機会にどこかですることになると思いますが…


実は帰国後のこの1か月に、かつては小さかった、若かった対象児・者のこの先の「development」および「growth change」について、また新たな情報を得ることとなりました。

すなわち、昨日も少し触れたのですが、
統合失調症 には、ノーマライゼーションをなんとか保っていられる10年くらいの後、突然の再発や増悪が避けられないケースがあること、
そしてもうひとつ、
自閉症 は、「予後はよい」とされていて、適切な療育によって小児期にはいったん、変更や変化への受容性を広げることに成功できることが多いのですが、その後、またその自閉性の強さが、成長あるいは老化に伴って進んでしまうケースがある、ということ、です。


音楽療法の治療的効果の柱は「リラクゼーション」と「コミュニケーション」です。
心身のさまざまな緊張をまず緩和してあげることで、相手と繋がろう、対話しよう、という意欲を喚起し、対象が扱える範囲の言葉を優しく、じっくりと使いながらも、言葉というものが持つコミュニケーションにおける弊害を最小限にし、「感情の言葉」と言われる音楽の中で繋がることで、安心して心を開く楽しさ、嬉しさ、喜び、をコミュニケーションにもたらし、そのことで、痛みや不安によって自分の中に閉じこもろうとするような心的な構えを緩めておけるようにしていくことにその最大の意味があるものと私は考えています。

そのために音楽を使える技術、というのも、そう簡単には身につきませんが、音楽でそれができるようになれば、対象児・者が、さまざまな情報処理を強いられる日常生活の中でその病や障がいの「症状」を悪くしていくことに、一定の歯止めをかけられるものと期待ができます。

たとえば、日本人なら誰もが知っている歌を幼少期に覚えた人は、年を取ってもこの歌を忘れることはありませんから、こうした歌とのふれあい体験が「嬉しかった」体験であった人は、仮に認知症が進んでも、永久に歌い継がれるような ♪赤とんぼ や♪ふるさと に触れれば、心を開きやすくなるはずなのです。心が開けば、他者と繋がるきっかけが生まれ、自分の抱えている苦痛を少し、相手に引き受けてもらえる可能性が出て来ます。

音楽療法はこうして、幼少期によりよい音楽体験を積んでおくことで、生涯にわたる自己治癒力につながる可能性を秘めているのです。

だから、こどもたちとセッションするときは、おかあさんが歌うような子守唄のような音楽から入るのです。
抱っこと子守唄、ゆりかごとお昼寝、これが、人がもっとも安心する「ふるさと」です。

通常発達のこどもたちが、さまざまな変化や変更にうまく対応して行けるようになるきっかけを作るのは、あの、幼稚園時代の「ごっこ遊び」です。
「なりきり遊び」とも呼びますね、最近は。
お友達と、時間も場所も忘れて、イメージの中で何にでも変身し、どこにでもワープして遊びたおしているこどもたちは本当に素晴らしいですよね。
最近の幼稚園児は、けっこう冷めていて、そういう遊びはしないのかなぁと心配していた時期もあったのですが、いえいえ、幼稚園ではどこも「自由遊び」となったら、男の子は闘いごっこ、女の子はおままごと、これは、大昔から何も変わっていないようです。
彼らは、BGMなんかなくても、衣裳なんかなくても、一瞬のうちに宇宙と地下を行き来したり、超人やプリンセスや妖精に変身したりしてしまいます。
でも、一人でやってるとつまらないらしくて、必ずお友達と一緒に巻き込まれ合ってTripしますよね。
そう!まさにTripするんです!
アルコールも薬物も何も要りません。
そうしてナチュラル・ハイな状態で、こどもたちは、自分のイメージが相手に伝わらないとか、
よかれと思って動いたのに相手に泣かれた、とか、
思うようにならなくてメチャクチャ嫌な思いをしたとか、
そうした体験を、毎日毎日飽きもせずに繰り返して小学生になります。

小学生になっても、1年生の間は、みんなまだ、そういう遊びをしたくてうずうずしています。
でも、学校は「遊ぶところ」ではない、と教えられ、次第に現実世界に戻っていきます。
2年生になると、だいぶ落ち着いて真面目になりますが、フラストレーションが言葉を破壊します。「死ね!」「うぜー!」が出始めます。
3年生になると、真面目なだけでは溜まり続けるフラストレーションが、大人の見ていないところでの悪戯やイジメ、暴言やちょっと深刻なケンカなどに発展します。男女がそれぞれの性的な違いを意識し始め、本能的な危険を察知するのか、女の子は男の子と一緒に遊ばなくなっていきます。
4年生になると、中学受験に向かうこどもたちが出て来ます。学力の差がつき始めます。
考えて行動できるようになり始める子と、衝動が先行してしまいやすい子とがはっきり分かれ始めます。
5年生になると、さらに学力の差が顕著になりますが、勉強を頑張る子が増えます。ケンカばかりしていた子の大半が、トラブルを起こさないようにしようという意識を強め始めます。エネルギーは、スポーツや勉強で周囲に抜きんでることに向けられるようになります。…というか、なればしめたものです。一方、思春期の入口に立って、さまざまな悩みの欠片も集め始めます。嵐やAKBのファンになる子が一気に増える時期でもあるでしょう。
6年生になると、中学受験組が黙々と目標に向かう中、受験しない組も、高校受験を視野に塾に通い出したりします。小学校の最高学年として、お兄さん、お姉さんとしての貫録を求められ?、そうした「役割」を演じようと自然に再び現実的な「なりきり」意識が出て来ます。「一番上」と讃えられることへの自負心や誇りは、幼稚園の年長さんの時に感じたものをバージョン・アップして甦らせることでしょう。…

と、ちょっと調子に乗ってとりとめなく書いてしまいましたが、2年生以降の記述はオマケでした。

つづきはまた明日以降にします。。。
なかなか、書きたいことの核心に到達できぬまま…。
Add a comment...

ヨーロッパから帰国してからブログの更新を控えています。日本を離れていた3ヶ月間にSNSがさらに急速に進化し、各SNSがその個性の差別化の確立に躍起になっている中、ユーザーたちもさまざまなメディアにそれぞれの使い方があることに否応なく気づき始めて、今、ブログをどう棲み分けさせるべきか、…私の場合は単なる日記代わりに始めたものではなかったので、少し整理したいと思っているところだからです。

昨日、3ヶ月ぶりに地方の精神科病院のデイケアにセッションに行ってきました。
この病院は、15年前から5年間、月に1~2回ずつ臨床に通っていた病院で、その後、子育て期で10年ほど伺えなかったのに、また昨年から、呼んでいただいて行かせていただくようになったのでした。

夕方、15年前から一緒に仕事をさせていただいていたスタッフと話していて、当時はデイケアに何とか通ってこられていた患者さんの中には、私が不在だった10年の間にすっかり病が再発・増悪してしまい、再入院して退院未定状態の患者さんや、すっかり人格が変わってしまった患者さんがいることを知りました。
その大半が、地域で再就職を果たしたり、授産などの福祉施設通所を始めることで、病院のデイケアに寄り付かなくなった方たちでした。

人格が変わってしまった患者さんの中には、10年前までは、ナーバスで、礼儀正しく、いつも不安で、生きることに真剣に悩んでいたのに、今は生家がお金持ちなのに任せて遊びまくりの生活を「自分はこれでいいんだ」と開き直って送っているという方がいました。

今日、脳科学者 茂木健一郎氏の連続ツイートで、「魂」と「死後の世界」について、下記のような箇所がありました。


@kenichiromogi茂木健一郎


たの(6)この世に生まれて、なぜか意識というものを持ってしまい、自分の死を認識し、悩み、苦しむ。そんな中で、「魂」や「死後の世界」といった表象を生み出したからと言って、それは恥ずべきことではなく、むしろ生きることの切実さに寄り添っている。


むしろ、この「生きることの切実さ」を感じているがために悩み、苦しむことが、人として失ってはいけない、とても大切な「人格」なのではないか、と、思ったのでした。
悩まず、苦しまなくなった人は、もはや自分を失った人なのかもしれない、と。


私が不在の10年間に、デイケアに通えなくなった患者さんもいましたが、逆に、いまだにちゃんと通ってきている患者さんもかなりの数に上ります。そうした患者さんたちとは、中断期間があるにしても、実に15年の付き合いになるわけです。
中でも、女性の患者さんたちなどは、私と一緒によく笑ってくれます。
来月からは病棟にも入らせていただくことになっており、当時デイケアにいらして今は入院されている患者さんにもお会いできるでしょう。
私を覚えていない患者さんが10年経っても一人もいなかったことにも驚きますが、病棟の患者さんが私と会って、どんな表情を見せてくださるのか、とても楽しみです。

生きることの切実さの中で悩み、苦しみながらも、なんとかして自分を失わずにいてくれている人たちが、なぜそうして健気に生きてゆけるのか、そこには、その苦痛をちゃんと心配してくれて、何年でも見守り続けてくれる、変わらない「寄り添い人」の存在が必要なのではないでしょうか。
人の一生は一度きりだから、出会った人々との共生の歴史も、どんなに長かろうと、一生かけて一度きり。
そう思って、立ち位置を変えないで生きてゆける人でありたい、と今、49の誕生日を前にして強く、強く、思います。
Add a comment...

Post has attachment
昨日、Facebookのニュースフィードで、高校時代の同級生たちとこのニュースの話をしました。
スペイン在住の同級生は、「残酷すぎる事件だから日本では報道してないかな?」と、訊いてきました。
「したよ」「見たよ」と、こちらの同級生たちが答えていました。

インターネットとSNSの発達によって、これまで自国の不祥事を隠せていた国も、こうして世界中から批判を浴びる情報透明時代が確実に訪れています。
愛ある人間性の一体化への道が、その向こうに見えていることを信じたいと、私は思っています。

ただ、日本って、中国で起きた事件なら、こうして早々と報道するんだな、という思いもありました。ソマリアのこどもたちの餓死のニュースは、いまだに報道されていませんから。

日本のこどもたちの被曝の危険性については、ヨーロッパをはじめ、世界中が共有してくれているのに、まだ日本は解らないのかな…
こうした記事を投稿するときに押す「共有」「シェア」のボタンが意味することと、世界中で傷みを分かち合うこととは、きっと同じ意味です。

この子が助かってくれることを、今は切に祈っています。
Add a comment...

GPSについて、みなさんはどのようにお考えでしょうか。
中学生以下の子どもを持つ親にとっては、子どもの安全を確認するのに有効な手段として使っていらっしゃることも多いでしょう。
でも、高校生になった私の息子は、頼むから追跡しないでくれ、と私に約束させました。
私はそれを尊重して、息子に外出中の連絡について、一定のお約束をしてもらいました。

今日、Facebookで、旧友の奥山さんとこんな議論をしました。
Facebookでは流れてしまうので、もったいないので、G+に残しておくことにしました。
コメントをお待ちしております。


奥山 清
居場所を知りたければ電話やメールで聞けばいいと思いますが、GPSで追跡するアプリが良いと正当化する人もいてちょっと驚きでした。
いいね!を取り消す · · 10時間前 ·

あなたと他3人が「いいね!」と言っています。.


中井 深雪 そうなんですね(*_*) 日本で、の話ですよね?
意外です。でも、何かが見えそうな現象…。
9時間前 · いいね! · 1人.


奥山 清 人を縛り付ける方向に作用したり、恨むことを助長したり、そういう想像力のない技術が個人的に嫌いというのもあります。明らかにネガティブな”感情”に働きやすい技術が、使い方次第だという言い逃れをするのが何か気持ち悪いのでした。。。
8時間前 · いいね!.


中井 深雪 そこです。
下手したら相手に知られずに相手の居場所を探ることができるような技術は、仮に使う側にとっては面白くても、自立行動ができる人たちにとっては、使われる側はあくまで、究極の表現をすれば「奴隷」とか「犯人」みたいなものですよね。ネガティブこの上ありません。
そうやって作られる関係に、対等とか平等もないのではないか、とも思います。壊れやすい関係を作るでしょうね。
29分前 · いいね! · 1人.


奥山 清 その通りですよね。
ストーカーはストーキングする相手を常に”見張る状態”にあります。それなのに、ストーカーのほとんどは、自分が相手に本当に嫌がれているとは思っていません。その手のアプリが相手を追い詰めていくというのは容易に想像がつくのです。
相手に黙って位置情報を得るアプリは少し前にスパイウェア扱いになったようですが、実は公式に相手の同意で位置情報を瞬時に送らせるアプリが公式アプリとして認められました。
いい訳としては、友達が集まりやすい、家族がどこにあるのかすぐわかるとか言う人がいますが、そんなの自分の位置情報を送ればいいわけですからね。
最近蔓延している「その先の問題を無視する傾向の社会」が僕はすごく危ないと思うのです。。。
20分前 · いいね!を取り消す · 1人.


中井 深雪 はい。そういう「日本らしさ」が、今の継続性のない政治や、世界中で起きている悲劇さえろくに報道しない日本の今のマスコミの体勢をも作ってきた、と私は考えています。
13分前 · いいね! · 1人.


奥山 清 継続性がキーワードですね。拙い情報から得たイメージですが、ドイツなんかは、それを感じる政治や社会の動き感じます。
9分前 · いいね!を取り消す · 1人.


中井 深雪 そこを突き詰めていくと、たぶんヨーロッパとの差は、「歴史に対する誇り」なんでしょうか。日本はいつ、自国の歴史を誇れるようになるのか…
5分前 · いいね! · 1人
Add a comment...

Post has shared content
日本国内にいると悲しいかな未だに真実を知る事ができない私たち。
Add a comment...
Wait while more posts are being loaded