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denkikaiden
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お互いに考え方が違う。
好みも違う。
でも一緒に暮らしてみよう、それでもお互いが必要だから。
考え方や好みが違うということがわかっているけれども、それを認めた上でうまくやっていけるようにお互いが努力してみよう。
すべて同じなんてあり得ないのだから。

実際の行動の基本にこういう考え方や暮らし方がある人を見ると私は戸惑ってしまう。
なぜか。

おそらく私が育った環境だけが特別なのではなく、日本のほとんどではいまだに「同じ考え方、同じような似たような好みの人としか絶対にうまくいかない」という思想がかたくなに浸透し続けていると感じる。
私はそういう環境で育ったし、今もそうだ。
「相手の考え方が違うことをそのまま認める」ということが正しいことだなんて教えられたことが一度も無いし、「常に正しいことは1つしかない」というような潔癖で完全な思想のような中でずっと育ってきた。
もちろん小学生の高学年頃になれば「なんとなくおかしい」「矛盾がある」ということに少しずつ気付いて不満を持ち始めるのだが、そこから急に開眼したりはしない。ただその不満をブツブツと持ち続けて「世の中少しくらいの矛盾があるのは当然だ」という程度に落ち着いてしまう。
考え方が違う人は仲間ではないし、大人(教師・学校)の言うことに異を唱える人は怒られ、考え方を変えるか我慢しなければならない。
というのが当然で、高校生ともなればその学校を出て行くかどうかまで深刻に考える。
そういうものだった。

相手の考え方が違うのは当然だ。
それを認めた上で人間として仲間として付き合っていくのだ。

なんて考え方にはならない。当然ならなかった。
そんな考え方があるのだということすら知らなかった。
いや、物語の展開上そういうのも見たことがあるとは思うが、それはしょせん物語であって現実的ではないから見てもそのまま流していた。
「そういうのはうまくいくわけない」と思って無視していた。

そもそも学校では教師が平気で子供をバカにしていたし、思想の統制のようなことを当たり前のようにしていたから、「違う考え方を認める」なんてあり得ないことだった。

日本は今でもまだまだそういう環境だろうと思う。
そういう環境で育ってきた人間ばかりなのだろう、そういう方向性の発言が圧倒的に多いことでもわかる。

大人になってから急にそういった基本的な思想を変えろと言ってもそれはまず無理だろう。
とてもとても難しいことだろう。
世間的にはそういった流れが押し寄せては来ているが、実際のところはなかなかすぐには変えられない部分だろうと思う。
こういった基本思想は幼い頃から育まれてすでに感情に直結してしまっているものだから、簡単には変更できないだろう。
少しずつ、少しずつ、もっと未来を見据えてゆっくりと確実に進めて行く姿勢でないと、性急すぎてもうまくいかないのではないかと思ったりもしている。
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友達や知り合いが居ないということは、
情報の比較ができないということ。
ネット、SNS、TV、そういった情報源はあるけれども、
リアルタイムで自分が今居る場所のローカルな細かい情報は得られない。
自分の外側から自分を見てくれて、何かおかしいということに気付いてくれる人も居ないということ。

自分ではしっかりしているつもりでも足がふらついていたり、注意が散漫になっていて荷物をさっきまで居た場所に置いてきてしまっていたりしたことはないだろうか。
人間はほとんどの場合自分自身で自分のおかしい部分に気付けるのだが、やはりどうしても気付けない場合もある。
そういった時に誰一人自分を気遣ってくれる人が居ないと、どういう事態になるか。

若い間はいい。
多少の無理はできるし、すぐ回復するし、ほとんどの場合家族の誰かがすぐそばに居る。
しかしある程度の年齢になると家族とも離れ、経済的にも距離的にも離れてほぼ完全に一人で暮らしている人も少なくない。
職場に通っていても、みなが仲間であるわけではない。
むしろ職種によっては周囲はみな仲間の振りはしているけれど敵みたいなものといった環境もある。

実はつらくてもかなり無理をしてでもやらなければならないタイミングもある。
なので周囲の人は少々具合が悪そうだとわかっていても誰も何も言ってこない。
これは私の実体験でもある。
明らかにかなり具合が悪い状態であっても、誰も、誰一人声を掛けて来ないものなのだなと具合が悪いのに不思議に思ったことを今でもはっきりと覚えている。

友人や知人がいないというのは、第三者目線で自分を見て「あれ?おかしいな」と気付いて「声を掛けてきてくれる人が居ない」ということだ。
自分自身が気付かなかった異常事態に気付いて、声を掛けてきてくれる人が居ないということだ。
それが怖いと思うのであれば、知らない人とでもうまくある程度仲良くなれる人物になることだ。
それがその怖さをうまく回避するための一番の近道だからだ。
そうすることでお互いにそれを回避できるのだ。

知っている人にとってはとても当たり前のことなのに、現代人の多くはそれを忘れてしまっている。
お互いのために必要なことなのに、それがまるで何かズルい方法でもあるかのような言い方をする人が居る。
が、それは違う。

お互いのために必要で、実は一番簡単で、とても良い方法なのだ。
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「~が公開」
最近このタイトルをよく目にする。
これが省略(短縮)された言葉だということが全然わかっていない人が意外といるようだ。

例えば下記のような変なタイトルを書いてしまう人が(文章を書いて飯を食っている人の中にも)居る。

例:「あのビッグタイトルの製作者が今度はNEWGAMEが公開!」

そこは「が」じゃないだろ、と大きい声で言いたくなる。
こういう部分を平気で間違える人達は自分が書いた文章をちゃんとしつこく読み直していないのだろうかと疑問に思う。
恥ずかしいと思わないのだろうか。
文章を書くプロでしょ、と。
素人の私でさえ公開する文章には気を使って何度も読み直しているというのに。
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現代社会においても未だに奴隷を必要としている先進国たち。
国内で合法奴隷を作り出す国。
国外の合法奴隷にたよる国や企業。
表向きはそんな事実はないような風を装っておきながら、実際は合法奴隷の存在がなければ成立し得ない生活だということにも気付けない多くの人々。
わかってはいるけれどもあえて大きな声でそれを言おうとはしない人々。
現代社会、先進国はそうして成り立ってはいないか?
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オレはいつも自分の姿が他人からどう見えているか認識しながらしゃべっているわけじゃない。
だからキミとオレが同じ年齢だと言われてもオレはそうなのかなと思うしかない。
少なくとも感覚的には。

もちろん記憶として自分の生年月日は知っているし、計算上は年齢が違うということもわかる。
しかし最初に言った通り「常に自分が他人からどう見られているかを自分自身は認識しているわけじゃない」から、知識として自分の年齢を知ってはいるけれども、感覚としては年齢の自覚はほとんどないと言っていい。

だからオレはキミが計算上は年下であろうとも年上であろうとも、オレにとっては関係がないことだ。

年齢ではなく、赤の他人であるというスタンスで接することが重要だと考えている。
年齢がこうなのに、年齢がこうだから、という勝手な思い込みの理由付けをしてはいけないと思っている。
その行為は結局のところその発言をしている人間がその年齢ならこれくらいできて当たり前、この年齢ならできなくて当たり前という勝手なただの思い込みで、さも常識であるかのような、絶対的なことであるかのような基準にしてしまって、相手を見下しているだけだからだ。
ただただとても失礼なことをしているだけだからだ。
でもその当人はそのことにまったく気付いていないし、他人をバカにすること、見下すことが本当は好きなのだけれども、それをうまく隠そうとしている人で、実は大変失礼な人なのだ。
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個人の自由が絶対正義であるかのような現代民主主義においては実現不可能なことも多くある。

理想的な社会主義が実現可能であるか、持続可能であるかどうかの大規模社会実験エリアを作ってみるというのも試みとしては必要なのかもしれない。
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各エリアにて大規模熱交換集合有効利用の試み。
アスファルトの下、各エアコン室外機、屋根瓦、東南西方向の外壁。
熱交換用のパイプを通して水冷式に。
熱水は各エリアごとに、集合熱交換機で電力へ変換。
各家庭にも小型熱電交換機と発電機と熱水保温タンク。

ヒートアイランド現象を抑制しつつ、発生している熱エネルギーを無駄に捨てず、地域全体で有効利用する試み。
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科学技術が進歩すればするほど、人はそれまでの人では居られなくなるようだ。

科学技術が進歩し続けられる環境は、つまり多くの人が生きることそのものの心配をせずに済む環境でもある。

食べるもの、眠る場所、すぐに治療をしてもらえる施設、教育、ある程度以上の身の安全が保証された環境、それらすべてが揃い、それらがかなり長い期間続いているという証拠だ。

そんな状態が長く続く社会では、新たな問題が出現し始める。

低賃金の職種職場であればあるほど逆に高効率化を求められ、あれをしてはいけないこれをしてはいけないトイレの回数まで制限され、いくつかの違反が重なるとペナルティが設けられ、給料を減らされたり1日ただ働きをさせられたりすることが横行するだろう。

残業をするな、有休を取れと口では言いながら、一方で実際にはそれができない状況を作り出し維持するようになるだろう。
就業時間内にそれがちゃんとできる人もいるのだから、それをできないのは個人の怠慢であって職場環境の問題ではないと言うだろう。
「それができるレベル」という基準そのものを常に最高レベルに引き上げ続け、尋常ではない高効率化を押し付け続けるようになるだろう。今までで一番優秀な人材がたまたま達成できたような、そういったレベルを基準にして「できないのは個人の怠慢だ」と言うだろう。

人はロボットではない。機械ではない。
にもかかわらず低賃金の職場ほど高効率化を求められる余り、人の自由をとことんまで奪ってまるで機械やロボットと同じ精度を求められ続けるようになるだろう。
すでにそうなってしまっている職場も少なくないという話も耳にする。

そしてそういった労働環境の話だけでなく、

人の持つ暴力性、暴力衝動、感情の暴発、そういったものはすべて排除されるべき対象になる。
大きな声を出さず、感情的にならず、イライラせず、ずっと沈着冷静で居ることこそが求められ、当然の常識となる。
建設的で、無駄がなく、無意味な行動をせず、他人が求める何かを創出することができる人がもっとも求められる。その上そうやって表舞台に出た人に対しては、聖人君子、あるいはヒーローであることすら求められる。
何事に対しても聖人で居なければならないのだ。

人は「冷静で誰かに何かを与えられるヒーロー」であることを求められる。

人はまるで作り物のヒーローであるかのような虚像を強く求められる。

きれいすぎるストーリーを求められる。

何事に対しても完璧な答えを出せる完璧なヒーローであることを求められる。

そうしてそれらを求める思いが広く強く浸透していき、心象(イメージ)格差(ギャップ)を産み出す。
そしていつの間にか心象階級(イメージギャップから産まれたレベル付け)が浸透してしまっていることだろう。
目に見える形で、人々は口に出してそれは当たり前のことだと言い始めるだろう。
そうなってしまったらもう止まらない。

一方では、「まるで人間とは思えないほど沈着冷静なロボットのようにきれいで完璧なヒーロー」を求め、その一方では何か理由を見つけて(ハメテ作り出して)は誰かを叩いて、ボロクソにこき下ろす、そういう両極端な世界。

人は、それまでのような人では居られない世界。
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【生物学的性機能と社会構造の形成と発展】

霊長類、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、昆虫類、魚類

性的二形

雌雄同体、単為生殖、クローン
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科学技術が進歩すればするほど、人間が「物」にどんどん還元されていく。

人は人自身を地球上に存在するその他の動物や植物や鉱物や根源的な物質など、どれとも違う特別な存在として位置づけ、思い込もうとしてきた。
特に宗教がそれに大きく加担してきた。
しかしながら1つ1つ解明し積み上げられてきた科学的知見によって、人そのものも明らかに物質であるとはっきりと感じ取れるほどに突きつけられるようになってきた。
真摯に正しく解明していくこと、そしてその成果を更に発展させそこから更に新しい成果を積み上げ続けていくことが科学なのだから、当然の結果であると言える。

人は「人だけは特別な存在だ」と、どうしても思いたがる。
しかもそれは他人ではなく、自分自身を特別だと思いたがるところから来ている。
人が「人は特別な存在だ」と言う時、それは「私は特別な存在だ」と思っていると言っているのだ。
本音を言えば「他の人はどうでもいい、私だけが特別な存在なのだ」とその人は思いたいのだ。そしてほぼ完全にそう思い込んでいるのだ。
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