先日、「被災とジェンダー/セクシュアリティ」というシンポジウムに行って参りました。ツイッターでその日のうちに色々書いたんですが、一箇所にまとめておこうと思います。基本的に、その場で聞いていて気になったところ、というか、批判というか、ツッコミ?みたいなものです。同意するところ、納得させられたところなどは、割愛します。

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シンポジウム全体を通して思ったことは、「被災したクィアの状況をマシにするために何かできることはあるか」という問題意識と「東北地域の(関東より息苦しいであろう)境遇からクィアを救うには」という問題意識がごちゃ混ぜになってる感じがあるな、というものだった。もちろん、東北にいるクィアの日常が関東のそれと異なれば、こういった被災時に現れてくる困難なり状況なりは異なってくると思う。だから、確かに分けられないものなのだけれど、前者の問題意識から後者の問題意識へツルツルっと滑っている人が多いように感じて、少し危険だと思った。というか、滑っていく人が多いのは何故かを問うことのほうが、都会/地方の問題を考える上で重要なんじゃないかと思うほど。

特に私が問題視したいのは、関東/東北という二項対立、そして日常生活(平時)/被災時(緊急時)という二項対立。これらの二項対立は、実際の生活の場で自身のジェンダーやジェンダーアイデンティティ、セクシュアリティ、あるいは政治的立場をネゴシエーションしている(関東・東北両方の)個々人の多様性を無化してしまう。

+AKIKO SHIMIZU さんが https://plus.google.com/113292625936673729653/posts/6nDq5qGHwSm で仰っているけれど、ジェンダー・セクシュアリティにまつわる状況改善進捗において関東(先行)/東北(後発)という進歩主義的な歴史観(近代論的歴史観)で両者を分けるのは、危険過ぎる。特にジェンダーに関して言えば、女性運動史において東北含め地方の動きは必ずしも関東のそれに追従するに留まらないものだった。

そもそも日本における近代の家父長制は都市部の中流的生活(男が外で働き、女が家を守る、みたいな)と密接に結びついているものであって、農村や漁村におけるジェンダー関係の歴史を同じ尺度で評価することはできない。むしろ、どのようにして資本主義や家父長制が都市部(地方都市も含め)から田舎町にまで普及していったのか、その過程でどのような変化がその土地ゝゝのジェンダー関係を変容させていったのかを見ないといけないと思う。その中で忘れてはならないことは、日本の戦後近代的な資本主義や家父長制が100%各地に行き渡ったわけではないということ。そして、たとえ関東といえども、あるいは東京といえども、戦後近代的な資本主義や家父長制と矛盾するものが皆無であるとは言えないということ。つまり、「関東/東北」という分け方をすること自体が、かなり乱暴なものであるということだ。

今回のイベントで登壇した小澤さんは、東北地域のクィア系及び女性系の団体のリーダーや窓口係から話を聞いてきたという。しかし、それで(あるいは、同じようなことを今後も繰り返すことで)東北というとてつもなく大きい地域について何か「こうである」と言えるような結論が出せるのかと不思議だ。主催団体のレインボーアクションは、近々 x東北 愛媛 からひとり活動家を呼んで話してもらうイベントを催すらしい。スピヴァクのサバルタンに関する議論を知らなくとも、何が危険なのかはわかるように思う。私自身そこそこの地方で育ったけど、その地方どころか、県や市町村レベルにおいても、多様すぎて、代表できる気が全くしない。これは、繰り返すけれど、スピヴァクの有名なサバルタン論に詳しいかどうかではなく、正に自分が発言するときに、自分の周囲にいる人々、つまり自分がへたすれば代表・表象してしまいかねない人々の顔を、思い出せるかどうかにかかっている。自分の周囲にいる人は本当に自分と同じような思いをしているだろうか、そう問えるかどうかにかかっている。

上で「都市部(地方都市も含め)」と書いたが、東北の中にも都市部はいくつもある。宮城県は栃木や群馬よりも総人口が多いし、その中でも政令指定都市である仙台は、同様に政令指定都市である関東の横浜市、川崎市、さいたま市、千葉市、相模原市と比較しても、横浜市に次いで第二位の人口を持っている。また、東北のすべての県がそれぞれ、所沢市と同等あるいはそれ以上の人口を持った都市部を持っている。更に、東北全体における都市部の人口は75%だそうだ。また、関東においても、例えば千葉は北海道に次いで農業生産額が2位で、野菜の生産額において1位である。生乳生産量においても千葉は3位で、1位が北海道、2位が栃木県だ。一方で、東北地方において自動車産業は大きな位置を占めている。もちろんこれだけで「関東も東北も同じだ」とは全然言えない(政治的資本は関東に集中しているし、原発は東北にあったわけだし)けれど、関東が都市的で東北が田舎的であるという漠然とした思い込みは、とりあえず捨てなければいけないだろう。あるいは少なくとも、東北の中の「都市」、関東の中の「田舎」の存在を忘却する発想は、やめるべきだ。

また、都市的であれ田舎的であれ、家父長制が強いかどうかはまた少しずれる問題だ。そもそもシンプルに、「東北は家父長制が根強い」だから「東北のクィアは息苦しい」みたいな決めつけは危険だと思うし、一体どこまで偉そうなんだろうかと思う。というか、そもそもありえない話だと思う。東北、ほんとに、そんなに? しかも東北全体が? 住民みんなが?! みたいな。シンポジウム全体にそういう考え方が前提のようになっていた(ように私には見えた)と思えば、一方で、トランス女性が避難所で多くの女性に受け入れられたという話がパネリストのひとりから紹介されたりする。また、その女性が女性用更衣室に鏡が欲しいと要望を出したら鏡が届いたというところからも、恐らく周囲の女性「だけ」に受け入れられたのではなく、その場を恐らく仕切っていたであろう人々(男性か女性かは知らないけど)にも最低限の理解を得られたのだと思う(*1)。家父長制が根強くて、クィアは息苦しくて、というのが本当に東北全体の真実だとしたら、このトランス女性の身に起きたことはどう解釈するのだろうか。

(*1:もちろん、他の女性ではなくこのトランス女性の要望が通ったというところに、「元男性」扱いというか、勝手に周囲に押し付けられる男性特権のようなものを感じなくもない。そして、同時に注意しておきたいのは、そのような男性特権は東北に特有のものではなく、恐らく関東だろうがニューヨークだろうが存在する。もう1つ注意点としては、東北は避難所などで男性が仕切っているという話が出ていたけれど、「ここだったら女性も対等に仕切れるだろうな」と思えるような地域は、私には思いつかない)

また、完パスorノントランジションしかいない(つまり、周囲からアイデンティティ通りの性別だと思われるような見た目のトランス、あるいはアイデンティティとは反対の性別と思われるような見た目のトランスしかいない)という地域について誰かが言及したと思ったら、一方で「男か女かどっちだ」と話題になった(ざっくり言えば「ノンパス」ということだろう)トランス女性がいたという話も出たりした。こういった具体的な事例を聞けば聞くほど、東北の多様性、あるいは「東北」というくくりの乱暴さに気づけるようなシンポジウムだったはずだ。それなのに、全体的には「東北」というくくりは前提になっていたように思う。

そもそも、私は常日頃思っているのだけれど、家父長制的な生活空間というのは、ある程度特権的な空間だ。女性やクィアを卑下・排除・侮辱・格下扱いするような文化は、ある程度は、中流階級のものだと思っている。それは、そもそもミソジニー(女性嫌悪)やホモフォビア(同性愛恐怖・嫌悪)、トランスフォビア(性別越境恐怖・嫌悪)というものが主流の文化、つまり組織化された規範的なものであるという事実に目を向ければ、当然のことのように思う。つまり、世の中で思われている所謂「まともな生活」「まともな感覚」というものは女性やクィアが格下扱いされる生活のことだし、それを当然とするような感覚だ。なにせ、石原慎太郎が「率直にものを言っている」と評価され、東京都知事選で当選してしまうのである。だいぶ主流だろう。

そして、ある程度の経済的・教育機会的な余裕がなければ、そのような「まともな生活」「まともな感覚」は手に入らない(もちろんそれだけじゃなくて、国籍の有無とか文化的資本の量とか、いろいろあると思う)。つまり、フォビックになれること自体がある程度特権的なんだ。もちろん低階層にフォビアがないわけじゃないが、現れ方には差異があるだろう。

そもそも、「家父長」が家庭内に存在するという前提自体が、中流的だ。私の母は、生まれて初めて父親に会ったのが、就学ちょっと前のことだった。それもほんの短い時間だけ、刑務所の面会室でのことだった。父親(私の祖父)は合計で8回刑務所に入れられ、そのうち最も長かったのが網走刑務所での8年間だった。そんな状況だったから、私の母の家には家父長はおらず、更に言えば昼夜働いていた彼女の母親も、ほとんど不在だった。また、仕事がある町への引っ越しを何度も繰り返したのに加え、数年に一度戻った父親の暴力から逃げるために家を出たり、近所に後ろ指をさされて追いやられたり、とにかく移動が多く、親戚関係や近所付き合いもほとんど無かった。シンポジウムで皆さんが「家父長制が強く、家族が離れることの難しい、地域に根ざした生活」という前提で話していた「東北」と同じ、地方と呼ばれる地域の出来事だ。

私は20代だが、私の世代においても引越しを繰り返すシングルマザーの世帯はたくさんある。私は人生のほとんどを日本の地方で過ごしたが、そのときにも友人にはシングルマザーの子どもは多かった。その中には、父親が服役中というところもあった。引越しを繰り返していた理由は、家賃が上がった、仕事がなくなった、夫に追い出されたが実家にも帰れない、などの不運な場合がほとんどで、まれに「少し金銭的余裕ができたので、少しでもましな家に」と思ってボロボロのアパートから公営住宅に引っ越す、というようなパターンもあった。私が知らなかっただけで、他の理由で引っ越していた人もたくさんいただろうと思う。私自身も、シングルマザー世帯で、何度も引越しを経験している。繰り返すが、これも、シンポジウムで皆さんが「家父長制が強く、家族が離れることの難しい、地域に根ざした生活」という前提で話していた「東北」と同じ、地方と呼ばれる地域の出来事だ。

家族離散も、低階層の人間には珍しいことではない。私の伯母は、物心ついたときから、実の親と一緒に生活をしたことがない。私の母の従姉妹はアメリカ兵の父親の顔を写真でしか見たことがない。その子ども二人は父親が違い、4人目の父親もいつのまにかいなくなった。私の母とその姉も、そして私と私の姉も、父親が違う。私の姉も数年前にシングルマザーになり、3人の小さな子どもを抱えたまま、引っ越しを繰り返している。これもすべて、シンポジウムで皆さんが「家父長制が強く、家族が離れることの難しい、地域に根ざした生活」という前提で話していた「東北」と同じ、地方と呼ばれる地域の出来事だ。

そして私は、クィアだ。地方に住むクィアだ。今でこそある程度安定した生活をしているものの、近隣にいる知り合いのほとんどは上に書いたような生活をいまでも続けている。いま住んでいるところも、ようやく4年目に入ろうとしている。けれど、クィアである者として、むしろ私はとても気が楽なのだ。引き継ぐ遺産も、家名もない。家紋すら、私が10歳のときに祖母が作ったものだ(これが結構ド派手で、個人的には好きなんだけど)。「実家」とか「故郷」もない。唯一お墓があるけれど、まあそのくらいは我慢しようと思えば我慢できる。クィアであることを家族も親戚も、職場の人間も、更には母の職場の人間すら知っているし、だからと言って何か嫌なことを言われるわけでもない(職場の人には「私たちは戸籍を調べたりしないから、安心して働いてください」とまで言われた)。初めて会う人にカムアウトするのも、あまり抵抗がない。むしろ、東京のリッチなレストランで隣の席に居合わせたスーツ姿のビジネスパーソンよりも、近所の居酒屋で隣に座ったろくでなしみたいな酔っぱらいのオヤジに対しての方が、よっぽどカムアウトしやすい。もちろん時には侮辱してくる人もいるけれど、田舎の飲み屋でも、レズビアンやトランスの問題を真剣に聞いてくれる酔っぱらいがたくさんいるのを私は見てきた。「世の中腐ってるわよね」っていうのが共有できる相手は、むしろ「地方」と呼ばれる土地の、辛酸舐めてる人なのだと思う。そして、相手が持っている社会に対する不満も、私にとっては共感しやすいものであるし(*2)。

(*2:例えば、正直言って、大卒の就職率が下がってることとかを嘆いてる人とかたまにツイッターで見るけど、「へー(でも女子大生とか地方の無名大学の学生って元々就職率悪かったわよねー)」って感じにしかならないけど、「時給が4年間もずっと850円のまま」とか言われるとズーンとくる。そういう人がどういう生活をしているか、どういう苦痛を抱えているかを実際の顔を伴って見て来たから。)

もちろんこれは、「地方だから」起きていることではなくて、私自身がたまたま幸運であるのだろうし、ネットや英語を使ってクィアに関する情報を得ることが出来るということである程度自己肯定感を高く持つことが出来ている面もあるだろう。だから、「東北」はおろか、「地方」についてすら何か一般化できることを言っているつもりはない。もし「いや、お前はそう言うが、東北は違うんだ!」と東北のクィアが声を上げるなら、反省してきちんと耳を傾けたいと思う。でも、あまりにも「東北地域の(関東より息苦しいであろう)境遇からクィアを救うには」という問題意識が先行している(ように見える)現状では、私が住んでいる/住んでいたのは東北ではないけれど、限りなく東北に近い、人口の少ない「地方」の人間として、クィア系や女性系の団体のリーダーや窓口係にいくらインタビューしても聞けないような話を共有しておくべきかと思って、書いてみた。

以下、細かいツッコミを書いておく。

・聞いてて面白かったのは、実際には働いている女性が多いということ。それと、賃金の安さから、片働きが難しく、家族が大きかったり離れられなかったりする、的な指摘(ちょっと記憶曖昧)。でも上で書いたような家族離散や転居を余儀なくされる層というのが東北に存在しないとは思えない。経済的に苦しいからこそ職を転々としなければならず、転居を繰り返すという状況もあるのだ。あとは、家族と一緒にいることが理由で更に経済的に厳しくなる場合すらある。「結婚は貧困のはじまり」と誰かが言っていたけれど、もちろん親や兄弟姉妹、親戚など、貧困のきっかけは自分や配偶者以外にも親族内にいくらでもある。

・対面重視で行こう、的な意見は危険だと思った。対人恐怖症やメンタルヘルスの問題を抱えてる人はもちろんのこと、顔バレを恐れる人、身体違和を感じてる人、自己肯定感の低い人など、対面では困るという人はたくさんいるし。その点で、グラインダーやスピンドルを使うという案も結構危険な気がする。

・「こんなときにLGBTとかいってもしょうがない。レズビアンであることは暫く忘れていた」というような意見があったけど、司会の人は「今回の被災で自分がセクマイであることを改めて考えた」という人に会ったという。ここからも、「東北のクィア」と言ったときに、それがかなり大雑把なくくりであることがわかる。LとGとBとTとその他の性的カテゴリーで色々状況が異なるのは当然として、経済的状況、民族、障害の有無、既往歴、家族構成、従事している産業など、色々な要素が絡まって、差異を作り出していると思う。どのクィアの発言が「信頼に値するもの」で、どのクィアの発言が「例外」なのか、決める権利は誰にもないだろう。高橋さんが指摘していた、「緊急時」に生命が優先されるときの「生命」とは誰のものかという問題も、ここに関わってくると思う。

・ヘテロ男性がいるところには常にホモフォビアがありました、って、ざっくりしすぎてて冗談かと思ったんだが、まぁだとしても笑えない冗談だと思う。ただ、「ホモセクシュアル」という名付け自体がホモフォビックだとするのであれば、確かに「ヘテロセクシュアル」というのは「ホモセクシュアル」というカテゴリー無しには存在できないカテゴリーなので、「ヘテロ」あるところに「ホモ」(という名付け=ホモフォビア)あり、とは言えるかもしれない。けれど、それならそれでそういう説明をしないと。ヘテロの男性という人々が(前言説的に=「ホモ」名付け無しに)存在して、同様に前言説的に(=名付けられることなく、自然な存在として)存在するホモの男性にフォビアを向けている、という解釈を誘導してしまうと思う。あえてやってるなら、ホモフォビアをヘテロ男性にアウトソーシングしてることになるだろう。

・ジェンダー秩序が強固だからクィアにとっての困難が生まれてる、という話があったけれど、それって「男女差別がなくなればクィアも自由になるんだから、まずジェンダーでしょ、まずそこで共闘でしょ、内部分裂とかしないで仲良くやりましょうよ」っていう某学会の主流の方たちの意見と繋がりそうで怖いんだが。

以上です。
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