Profile cover photo
Profile photo
masataka kyou
一級建築士
一級建築士
About
Communities and Collections
View all
Posts

Post is pinned.Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

ウクライナ、首都キエフ
中世期のキエフの象徴
聖ミハイール黄金ドーム修道院。

1941年8月21日【木曜】
国際情勢  独軍、レニングラードまで
      20キロの地点に進出。
      ヒトラー総統、モスクワ攻
      略を中止してクリミア半島
      攻略を指令。

独ソ戦のヒトラー戦略(情報分析力)
完全な奇襲を受けたソ連軍を各地で撃破
した。しかし7月にはヒトラーと軍首脳
の間で意見の相違が生まれた。軍首脳は
モスクワ攻略を主張したが、ヒトラーは
ウクライナのドネツ工業地帯やレーニン
グラードの攻略を優先させるよう命令し
モスクワ方面への攻撃を停止させた。と
ころが8月末にはヒトラーの気が変わり、
再度モスクワ進撃を命令した。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

ニューブリテン島、ラバウル。

1942年8月15日【土曜】
陸海軍作戦 外南洋部隊と一木支隊との間に
      作戦協定が成立

一木清直
最期の状況
1942年8月18日にガダルカナル奪回作戦の
尖兵として送り込まれ、同島タイボ岬から
2昼夜を費やして情報不足の中ヘンダーソ
ン飛行場の東方約3キロにあるイル川河口
付近に進出。20日22時30分よりエドウィ
ン・ボロック中佐率いる第1海兵連隊第2大
隊のイル川西岸陣地に夜襲を決行。2度に
わたる肉薄強襲を試みるも堅い機銃座と鉄
条網に守られた陣地を抜くことができず夜
襲を断念しイル川東岸の海岸付近に兵をま
とめたところを翌朝イル川上流から迂回渡
河してきた第1海兵連隊に東南方より包囲
圧迫される形となり、21日15時(米国側記
録では14時に主な戦闘は終了、負傷兵15名
を捕虜としたとされている)、死者行方不
明者777名を出したところで軍旗を奉焼し
自決したとされている。なお、自決につい
ては、どうにか連隊本部に合流できた30名
余りの負傷兵の誰もが連隊旗を所持せず(
米国側の記録にも連隊旗の所在は記載が無
い)、一木支隊長の最期を確認していない
ため日本側の戦闘詳報では「一五〇〇 連
隊旗を奉焼し自決」となっているが、「自
決」ではなく「戦死」との米側記録も一部
に見られ、確かな状況は分かっていない。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

大韓民国、ソウル漢江。

1948年8月14日この日、大韓民国が成立。

1942年8月14日【金曜】

独立に至る経緯
朝鮮は1910年の韓国併合によって日本の
統治下に入り、国際的に併合の合法性を
問題視する国も無かった。だが、第二次
世界大戦の勃発で日本と連合国が敵対す
るようになると、連合国の首脳は1943年
に発表したカイロ宣言の中で大戦後の朝
鮮に「自由且独立ノモノタラシムル」事
を宣言した1945年2月、ヤルタ協定にて
連合国首脳は戦後朝鮮を米・英・中・ソ
四国による信託統治下に置くことを決定
、ヤルタ会談と米軍との秘密協定に基づ
いてソ連軍は8月9日の対日参戦後速やか
に朝鮮半島へ侵攻を開始した。1945年8
月15日、日本がポツダム宣言の受託を宣
言したことで朝鮮の日本統治からの離脱
が決定的となった。韓国ではこれを「光
復」と呼び、8月15日を光復節という祝日
に定めている(北朝鮮も同日を祝日に定
めている)。

朝鮮戦争
1950年6月25日、朝鮮人民軍(北朝鮮軍)
は韓国との境界であった北緯38度線を越
えて南下を開始し、朝鮮戦争(韓国動乱)
が勃発した。その頃、弱体である韓国軍
は敗退を重ね、洛東江以東の釜山周辺に
まで追い詰められた。北朝鮮の侵攻に対
して国連安保理は非難決議を上げ、米国
を中心とする西側諸国は国連軍を結成し
て韓国軍と共に後退戦を戦っていたが、
仁川上陸作戦により北朝鮮軍の戦線を崩
壊させ、反攻に転換した。韓国軍・国連
軍は敗走する北朝鮮軍を追ってを鴨緑江
近辺にまで侵攻した。これに対し中国が
義勇軍を派遣して北朝鮮の支援を開始、
韓国軍・国連軍を南に押し戻し、一時再
びソウルを占領した。その後、北緯38度
線付近で南北の両軍は膠着状態になり、
戦争で疲弊した米国と北朝鮮は1951年7
月10日から休戦合意を巡る協議を開始し
た。2年間に渡る戦協議の末、1953年7月
27日の朝鮮戦争休戦協定締結を以って大
規模な戦闘は停止した。ただし、韓国政
府は休戦協定に署名しておらず、戦争自
体も協定上は停戦状態のままとなってい
る。この戦争により、朝鮮半島のほとん
ど全域が戦場となり、インフラや文化財
の焼失、戦闘での死者のみならず、保導
連盟事件や済州島四・三の事件例にある
ように双方とも敵の協力者と見なした一
般市民の大量処刑を行うなど、物的、人
的被害が著しく、国土は荒廃した。また
、38度線が引かれた事により朝鮮半島が
分断が確定的となり、朝鮮統一問題が南
北朝鮮の最重要課題となっている。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

モロッコ。

1942年8月13日【木曜】
国内情勢  軍令部総長、ガダルカナル島の
      戦況を楽観的に上奏。
陸海軍作戦 大本営、第17軍と連合艦隊に「
      カ」号作戦(ソロモン諸島奪回
      作戦)を指示。
      第17軍・第8艦隊・第11航空艦
      隊との間でガダルカナル島奪回
      作戦に関する現地協定が成立。
      第17軍、一木支隊にガダルカナ
      ル島飛行場奪回を下令。
国際情勢  モントゴメリー英陸軍中将、北
      アフリカ戦線の第8軍司令官に
      就任。

北アフリカ戦線
第二次世界大戦において1940年9月のイタリア
軍によるエジプト侵攻から、1943年5月のチュ
ニジアの戦いにより、枢軸国軍の壊滅・ヨーロ
ッパ本土撤退までを指す。エジプトからモロッ
コまで、北アフリカ北岸で行われた。
概要
第二次世界大戦の中でも特異な戦場であった。
砂漠地域での戦いであり、前線においては、そ
の地形を利用した大胆な機動戦が行われた。そ
の進撃距離は長いが地域は細長く、占領した地
域が広域であろうとも土地そのものの価値は低
く、地上戦だが補給は孤島に援軍を送るように
困難であり兵站能力が極めて重要であった。ま
た、全軍への補給に際しての、地中海の制海権
、少ない港湾の能力、マルタ島の価値、制空権
が地上戦に大きな影響を与えた。

同時に両軍の戦力や補給量の問題により、戦線
が短時間で大きく移動した。このとき移動に活
用された主なルートはその多くがかつてのサハ
ラ交易路のである。

アフリカで苦戦するイタリア軍への援軍として
送り込まれたドイツアフリカ軍団の指揮官であ
るエルヴィン・ロンメル大将は、少数の派遣軍
という劣勢な状態ながら地理・気候を利用した
巧みな用兵で連合国軍と戦い「砂漠の狐」と呼
ばれ、1942年6月22日北アフリカ戦線での働き
が認められてドイツ国防軍で当時最年少の元帥
となった。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

アレクサンドリア。

1942年8月12日【水曜】
陸海軍作戦 大本営陸海軍部、情勢に応ずる
      東部ニューギニア・ソロモン群
      島作戦に関する中央協定が成立。
      第8艦隊、横須賀鎮守府第5特別
      陸戦隊の1個中隊にガダルカナル
      島派遣を命令。
      大本営と連合艦隊、第8根拠地隊
      首席参謀のガダルカナル島偵察報
      告により、同島の戦況を楽観的に
      判断。
国際情勢  モスクワで米英ソ三国会議開催。

第二次世界
1942年
東部戦線では、モスクワ方面のソ連軍の反撃
はこの年の春までには衰え、戦線は膠着状態
となる。ドイツ軍は、5月から南部のハリコ
フ東方で攻撃を再開する。さらに夏季攻勢ブ
ラウ作戦を企画。ドイツ軍の他、ルーマニア
、ハンガリー、イタリアなどの枢軸軍は6月
28日から攻撃を開始し、ドン川の湾曲部から
ヴォルガ川西岸のスターリングラード、コー
カサス地方の油田地帯を目指す。一方ソ連軍
は後退を続け、スターリングラードへ集結し
つつあった。7月23日、ドイツ軍はコーカサ
スの入り口のロストフ・ナ・ドヌを占領。
8月9日、マイコープ油田を占領した。

ドイツ海軍のカール・デーニッツ潜水艦隊司
令官率いるUボートは、イギリスとアメリカ
を結ぶ海上輸送網の切断を狙い、北大西洋を
中心にアメリカ、カナダ沿岸やカリブ海、イ
ンド洋にまで出撃し、多くの連合国の艦船を
撃沈。損失が建造数を上回る大きな脅威を与
えた(大西洋の戦い)。しかし、米英両海軍
が航空機や艦艇による哨戒活動を強化したた
め、逆に多くのUボートが撃沈され、その勢
いは限定されることになる。

8月23日からはスターリングラード攻防戦が
開始された。まず空軍機で爆撃し、9月13日
から市街地へ向けて攻撃が開始。連日壮絶な
市街戦が展開された。しかし、10月頃よりド
イツ軍の勢いが徐々に収まっていく。11月19
日、ソ連軍は反撃を開始し、同23日には逆に
枢軸国軍を包囲する。12月12日、エーリッヒ
・フォン・マンシュタイン元帥は南西方向か
ら救援作戦を開始し、同19日には約35kmま
で接近するが、24日からのソ連軍の反撃で撃
退され、年末には救援作戦は失敗する。

北アフリカ戦線では、エルヴィン・ロンメル
将軍率いるドイツ・イタリアの枢軸国軍が、
この年の1月20日から再度攻勢を開始。6月
21日、前年には占領できなかったトブルクを
占領。同23日にはエジプトに侵入し、30日に
はアレクサンドリア西方約100kmのエル・ア
ラメインに達した。しかし、補給の問題と燃
料不足で進撃を停止する。10月23日から開始
されたエル・アラメインの戦いでイギリス軍
に敗北し、再び撤退を開始。11月13日、イギ
リス軍はトブルクを、同20日にはベンガジを
奪回する。同盟国イタリア軍は終始頼りなく、
事実上一国のみで戦うドイツ軍は、自らの攻
勢の限界を見ることとなる。さらに西方のア
ルジェリア、モロッコに11月8日、トーチ作
戦によりアメリカ軍が上陸し、東西から挟み
撃ちに遭う形になった。さらに北アフリカの
ヴィシー軍を率いていたフランソワ・ダルダ
ン大将が連合国と講和し、北アフリカのヴィ
シー軍は連合国側と休戦した。これに激怒し
たヒトラーはヴィシー政権の支配下にあった
南仏を占領(アントン作戦)した。

この年の1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼー
においてナチス党の重要幹部が集結し「ユ
ダヤ問題の最終的解決」について協議した
ヴァンゼー会議を行われた。これ以後、ワル
シャワなどゲットーのユダヤ人住民に対し、
この年の7月からアウシュビッツ=ビルケナウ
やトレブリンカ、ダッハウなどの強制収容所
への集団移送が始まった。収容所に併設され
た軍需工場などで強制労働に従事させ、ガス
室を使って大量殺戮を実行したとされる。

大量殺戮は「ホロコースト」と呼ばれ、194
5年にドイツが連合国に降伏する直前まで、
ドイツ国民の支持または黙認の元に継続され
た。最終的に、ホロコーストによるユダヤ人
(他にシンティ・ロマ人や同性愛者、精神障
害者、政治犯など数万人を含めた)の死者は
諸説あるが、数百万人に達すると言われている。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

マルタ島。

1942年8月11日【火曜】
国際情勢  独潜水艦U-73、英空母イーグルを
      撃沈。

空母イーグル
イーグルは1941年4月9日に駆逐艦エンカウン
ターとデコイに護衛されてアレクサンドリア
を出港し、4月10日に護衛の駆逐艦と分かれて
スエズ運河に入り、同日、グレートビター湖に
入った。運河内にはドイツ軍の機雷によって沈
んだ船があり、強風のためその場所の通過が不
可能であったためイーグルは4月15日までグレ
ートビター湖に留まることになった。4月15日
に無事障害物の場所を通過し、ポートスエズに
到着した。そこで給油を受け、翌日にポートサ
イドを出港、単独で南へ向かい4月18日にポー
トスーダン沖に着いた。翌日イーグルは出航し
、ポートサイドに展開していた搭載機のソード
フィッシュを収容後さらに南へ向かい、4月21
日にアデンに着いた。同日、重巡洋艦コーンウ
ォールと共にアデンを離れ、イーグルとコーン
ウォールの2隻は4月26日にモンバサに到着した。

次いで1942年8月のペデスタル作戦にも参加し
、同月11日にアルジェ北方沖でマルタ島への輸
送船団護衛任務中にドイツの潜水艦U-73の魚雷
4本中3本を左舷機関区に受け、8分後に沈没した。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

ガダルカナル島、ホニアラ。

1942年8月10日【月曜】
陸海軍作戦 一木支隊の第17軍編入を発令。
      大本営、潜水隊の編成を3隻
      編成から6隻編成に変更すること
      を決定。
      重巡加古、ニューアイルランド島
      北方で米潜水艦S-44の雷撃を受け
      て沈没。
      日本郵船の新田丸、空母(沖鷹)
      への改装工事に着手。

第二次ソロモン海戦
第二次世界大戦中、1942年8月24日にソロモン
諸島の北で戦われた日本軍とアメリカ軍との間
の海戦。連合軍側の呼称は東部ソロモン海戦。
日本海軍は空母1隻を喪失、ガダルカナル島への
兵員輸送にも失敗して敗北した。

第三次ソロモン海戦
1942年11月12日 - 15日にソロモン海で行われ
た日本海軍とアメリカ海軍、オーストラリア海
軍との間で行われた海戦のこと。連合国軍の勝
利により日本軍増援部隊は阻止され、ガダルカ
ナルの戦いは連合国軍優勢となった。

ガダルカナル島の戦い
第二次世界大戦において1942年8月以降日本軍
と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナ
ル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウ
ェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換
点となった。 また日本は、兵員、軍艦、航空機
、燃料、武器等を多く失ったため国力が大きく
減少した。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

ソロモン諸島、ガダルカナル島。

1942年8月9日【日曜】
国際情勢  インド政庁が国民会議派弾圧
      、ガンジーを逮捕。

第一ソロモン海戦
結果
戦術的に完敗したアメリカ軍は苦渋に満ち
ており、戦後、太平洋戦史を著したS.E.モ
リソンは以下のようにこの海戦をまとめて
いる。

これこそ、アメリカ海軍がかつて被った最
悪の敗北のひとつである。連合軍にとって
ガダルカナル上陸の美酒は一夜にして敗北
の苦杯へと変わった。

— S.E. モリソン、アメリカ海軍作戦史

二カ月後のサボ島沖夜戦(エスペランス岬
沖海戦)においては、第一次ソロモン海戦
でアメリカ軍が犯したものと同じミス(索
敵の不十分、敵味方の誤認)を日本軍が犯
すことになった。
影響
日本軍ではミッドウェーの大敗北で士気が
下がっていたところにこの大勝利があり大
いに士気が上がったという。この作戦立案
をした神重徳大佐は「作戦の神様」として
祭り上げられることとなり、後々の彼の立
てた無謀な作戦も比較的容易に採用される
ようになる。一方、日本軍航空隊で顕著だ
った戦果誤認問題は尾をひいた。輸送船1隻
、駆逐艦2隻大破、戦闘機16機撃墜の戦果に
「大巡1隻撃沈、軽巡2隻火災沈没確実、軽
巡洋艦1隻大破傾斜、駆逐艦2隻撃沈、輸送
船9隻撃沈、輸送船2隻火災、敵戦闘機48機
、爆撃機5、中型機1撃墜」と報告した日本
軍航空隊の認識力は、台湾沖航空戦の大誤
報がレイテ沖海戦に繋がったように、日本
軍の作戦そのものに影響を与え続けた。宇
垣纏連合艦隊参謀長は「視認判定の戦果と
実情とは相当の差ある事を覚悟すべし。毎
日の戦果敵情に連れて刻々の情況判断を新
にし計画の変更に備ふべきを命ず」と述べ
ている。本海戦以降、第八艦隊も日本海軍
航空隊の戦果報告を信用しなくなり、実戦
果は1⁄10程度と見積もるようになったが、
これは友軍にも内密であったという。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

ガダルカナル島、ホニアラ。

1942年8月8日【土曜】
国内情勢  第16軍軍政監部、蘭印の主都
      バタビアを蘭国が支配する前
      の名称「ジャカルタ」に改名。

陸海軍作戦 第一次ソロモン海戦

指揮官
〔日本軍〕第8艦隊司令長官 三川軍一中将
〔連合軍〕南方部隊指揮官 クラッチレー
     英海軍少将
北方部隊指揮官 リーフコール米海軍大佐
東方部隊指揮官 スコット米海軍少将

参加兵力
〔日本軍〕重巡5、軽巡2、駆逐艦1
〔連合軍〕重巡6、軽巡2、駆逐艦8
損害
〔日本軍〕損傷 : 重巡1
〔連合軍〕沈没 : 重巡4
損傷 : 重巡1、駆逐艦2

第8艦隊はガダルカナル島とツラギの敵輸送
船団泊地を夜襲、泊地を警戒していた連合
軍艦隊と交戦となり、米重巡アストリア、
クインシー、ヴィンセンス、豪重巡キャン
ベラを砲雷撃戦で撃沈、重巡1隻と駆逐艦2隻
を撃破するが、本来の目的である敵輸送船団
を攻撃せず帰投した。

連合艦隊、ソロモン方面奪回作戦発動を下令。
連合艦隊、南東方面部隊(第11航空艦隊、第
4艦隊、第8艦隊)の編成を発令。
連合艦隊、南東方面部隊にガダルカナル島方
面の敵攻略部隊撃滅を下令。
連合艦隊、第26航空戦隊にラバウル進出を下令。
第8艦隊、陸戦隊のガダルカナル島上陸中止を
発令。
ツラギ守備隊全滅。
連合軍作戦 米艦隊、キスカ島を砲撃。

第一ソロモン海戦
背景(2)
1942年(昭和17年)8月7日早朝、アメリカ軍
海兵隊約3,000名を主力とするアメリカ軍がガ
ダルカナル島および対岸のツラギ島に奇襲上陸
した。これに対し、ツラギの日本軍守備隊は偵
察部隊の飛行艇隊であった横浜海軍航空隊要員
を含めてわずか400名にしか過ぎず、奇襲を受
けた日本軍守備隊は0420(4時20分、以下時間
は数字表記)に敵を「空母1隻、重巡4隻を含む
20隻以上の機動部隊を含む上陸部隊」と通報し
た上で、この海域の警備を担当するために同年
7月14日に新設されたばかりの第八艦隊に至急
の救援を要請した。さらに0535には「戦艦1隻、
巡洋艦3隻、駆逐艦15隻、輸送船多数」を報告
した。だが兵力差は圧倒的であり、0610に駐留
していた横浜空司令からの「敵兵力大、最後の
一兵まで守る、武運長久を祈る」との打電を最
後に連絡は途絶し、守備隊はその日夕刻に玉砕
した。これによりフロリダ諸島の戦いは終わっ
た。ほぼ同時刻にガダルカナルにもアメリカ軍
が上陸し、飛行場建設のために駐留していたガ
ダルカナル島の日本軍守備隊は、情況連絡する
余裕もなくガダルカナル島内陸部西方に撤退し
た。宇垣纏連合艦隊参謀長は「アメリカ軍機動
部隊を含めた大部隊が接近していたのに、なぜ
現地軍は発見できなかった」と著作中で嘆息し
ている。
Photo
Add a comment...

Post has attachment
おはようございます。have a nice day!

ガダルカナル島。

1942年8月7日【金曜】
陸海軍作戦 連合艦隊、B作戦中止とソロモン
      方面奪回作戦準備を下令。
      連合艦隊、第2艦隊と第3艦隊の全
      力で米機動部隊の捕捉殲滅を決意。
      連合艦隊司令部のトラック島進出
      を決定。
      大本営、第17軍にソロモン方面の
      海軍作戦援助を指示。
      大本営、内地に帰投中の一木支隊
      にグアム島への引き返しを下令。
      第17軍、川口支隊のガダルカナル
      島派遣を決定。
      第8艦隊(外南洋部隊主力)、ラバ
      ウルを出撃し敵攻略部隊泊地に向か
      う。
      第11航空艦隊、第5空襲部隊と外南
      洋部隊に敵攻略部隊の撃滅を下令。
      第5空襲部隊、ガダルカナル島方面
      の敵攻略部隊攻撃を決行。
連合軍作戦 米軍、ウォッチタワー作戦を発動、
      ガダルカナル島とツラギに上陸。

第一ソロモン海戦
背景(1)
米海兵隊上陸
日本海軍軍令部はニューカレドニア、フィジー、
サモア方面への進出作戦であるFS作戦をたてた
が、1942年(昭和17年)6月に発生したミッド
ウェイ海戦における大敗北により、FS作戦は延
期された。トラック諸島防衛と失った空母の航
空兵力を補うため、日本軍は井上成美中将(第
四艦隊司令官)の進言により、ガダルカナル島
にルンガ飛行場を建設し、8月5日に戦闘機30・
艦載機30が進出予定、8月15日には1個航空戦隊
の収容が可能となるはずだった。実際、第十三
設営隊岡村徳長少佐は7月末に一部滑走路が完成
すると報告して日本軍戦闘機の進出を要望して
いる。これは「ソロモン諸島・ニューギニア島
東部における航空基地獲得設営のための作戦(
SN作戦)」の一環だった。またポートモレスビ
ー攻略を行うレ号作戦やり号作戦を開始しよう
としていた。7月26日、第四艦隊は第八艦隊(
旗艦鳥海、三川軍一中将)に外南洋方面受持警
戒区域の引継ぎを行ったが、井上以下司令部は
「アメリカ軍は外南洋の島伝いには来ない」と
断言した。ラバウルの第八根拠地隊司令官金沢
正夫中将も、第八艦隊に井上と同様の見解を示
した。
Photo
Add a comment...
Wait while more posts are being loaded