明智光秀と進士氏のシンクロ(交差)について
 明智光秀の唐突な歴史への登場とその身分が 最有力の「奉公衆」であったという事実と 『明智光秀の乱』では様々な状況証拠から考えて明智光秀は足利義輝の側近で最有力の「奉公衆」であった進士美作守晴舎(しんしみまさかのかみはるいえ)の嫡子進士藤延(ふじのぶ)が信長に奉じられて義昭が幕府を再興した後に「明智光秀」を名乗って復権したのではないか、という仮説を詳しく記しました。
 明智光秀の系図の一つである「明智氏一族宮城家相伝系図書」には「光秀実ハ妹婿進士山岸勘解左右衛門尉信周(しんしやまぎしかげゆうさうえいもんいのぶちか)之次男也」としています(『大日本史料』十一之一)。
 進士氏は一般にはあまり知られていませんが義輝側近としてその代表格でした(『晴右卿記』フロイス『日本史』、『蜷川文書(にながわもんじょ)』『後鑑(のちかがみ)』など)。
 特に永禄五年以降義輝の重臣である政所執事伊勢貞孝・御供衆上野信孝・大館晴光などが相次ぎ他界しているので「永禄八年五月政変」直前では進士美作守晴舎が義輝政権における最大の権力者であったと言うことができます。
 また進士晴舎は義輝の側室小侍従(こじじゅう)の父親でありその娘の祖父として外戚(がいせき)関係にありました。ところが進士氏は義昭政権では消え去り入れ替わるようにして正体不明の大物奉公衆明智光秀が唐突に史上に登場します。晴舎の子とされる進士作左衛門は義昭の「奉公衆」ではなく光秀の側近になっています(『細川家記』)。
 「進士=明智説」は進士晴舎の嫡子藤延が「永禄八年五月政変」で実は生き残り義昭政権で復権する際に明智光秀と名乗ったのではないかというものです。いずれも論拠は状況証拠となりますがそれが積みあがっていく事情はご理解していただけると思います。
 重要な視点は義輝の側室小侍従(進士氏)と義輝の男子の存在、そしてその後見人として最適の人物は実兄で義輝の側近であった奉公衆進士藤延であったということになります。
 もし三者が生存していれば三位一体として考えなくてはなりません。義輝が小侍従を将軍御所の外へ出したことは当時の信頼すべき史料から実証できます。
 もう一つ実証できる重大な事実は義輝の男子の存在です。これは『細川家史料』(『大日本近世史料』東京大学史料編纂所)『西山文書』をはじめとする書状などから細川藩へ招かれた尾池義辰(おいけよしたつ)が足利義輝の遺児として認知されていたことは確実です。
 義辰の細川藩への招聘(しょうへい)は藩主細川忠利だけでなく細川家に多い「奉公衆」の系譜につながる家臣団や旗本曽我古祐(そがひさすけ)も深く関与していることから德川幕府中枢も了解していたとみなされます(『細川家史料』「伊勢系図」『西山文書』)。
 詳しくは著書をご覧になっていただけるとありがたいのですがこの問題を整理すると明智光秀と進士氏がシンクロ(交差)していることがわかると思います。以下事実経緯からプロファイリングしてみます。
⑴ 光秀が有力奉公衆として史上へ登場した日付は永禄十一年十一月十四日でありその時期は十月十八日に義昭が将軍に任官し十月二十六日に信長が岐阜に下向するまでが想定できる(『織田信長文書』補13)。
⑵ 信長は家臣の姓や名の変更による情報操作を頻繁に行っている(『信長公記』『朝倉始末記』)。
⑶「永禄六年諸役人附」の義昭政権の部(上洛直前の名簿)に「進士知法師」という出家した人物が記されているがその後見ない。義昭出奔後山城半国守護であった光淨院暹慶(こうじょういんせんけい)が山岡景友(やまおかかげとも)として還俗した事例がある。
⑷ 関係文書と職制から示される光秀の地位は、「御供衆」に准じる「部屋衆」となるが、例外として認められるのは義輝政権で「申次衆」であった進士(しんし)美作(みまさか)守(かみ)晴舎(はるいえ)がいる(『蜷川(にながわ)文書(もんじょ)』『後鑑』フロイス『日本史』)。
⑸「永禄八年五月政変」の後も進士家の相続人が幕府再興運動に関与していることは、義秋(義昭)が還俗し将軍となる意思を示す願文『進士文書』で示されるが、晴舎の子とされる進士作左衛門(『細川家史料』人名一
覧)は「奉公衆」となっておらず光秀の側近になっている。
⑹ 「永禄八年五月政変」にあたり三好氏・松永氏は義輝の男児の存在を恐れて小侍従を追跡し殺害した(『言継卿記』『晴右卿記』)。小侍従は御所を逃れ久我(こが)竹村で捕まり知恩院にて処刑された。しかし処刑前に顔をつぶされていることから本人確認ができない状況にあった。(フロイス『日本史』)。
⑺ 「永禄八年五月政変」で進士晴舎は切腹し藤延は最初の戦いで戦死した(『言継卿記』『晴右卿記』フロイス『日本史』『足利季世記』など)。しかし荒川晴宣は死亡とされたが存命していた事例がある(『言継卿記』)。
⑻ 明智光秀は、竹という女性とみられる人物を越前の服部氏に保護させており、百石の知行を与えている(『大日本史料』十一之一)。それは義昭が出奔し坂本城が完成した時期に符合する(『兼見卿記』)。
⑼ 明智光秀の妹ツマキが死去した時、光秀は大いに嘆き信長の政治行動にも影響を与えるものであると当時、考えられていた(『多聞院記』)。明智光秀の妹ツマキ=竹=小侍従の可能性は否定できない。
⑽ 光秀の子明智光慶は成人していたにもかかわらず、信長との接点が全くなく初陣もしていない。フロイスは光秀の子供たちがヨーロッパの王子のようであったと記す(フロイス『日本史』)。
⑾ 足利義昭には 最後まで正室がおらず実子(義(よし)尋(ひろ))はいたが後継者を定めなかった(奥野高広『足利義昭』)。
⑿細川忠興は、父藤孝と光慶の面前で明智光秀に家宝の「地蔵(じぞう)行平(ゆきひら)」を献じているが(『天王寺屋他会記』)、藤孝ではなく子の忠興が献じて光秀が取り次いだことから主は光慶と考えられる。
⑿ 天正十年(一五八二)六月九日「細川藤孝宛明智光秀覚状」によれば、光秀は光慶と忠興に後を託すとしている(『細川家史料』)。光慶は天正9年の連歌会の追加の発句(ほっく)を「春を待つ行く末久し梅の花」と詠い、天正十年五月二十八日「時は今」の『愛宕百韻』の挙句(あげく)は「国々はなおのどかなるころ」でありその重大性は光慶の地位を物語る。
⒀足利義輝の遺児生存の伝承が「伊勢系図」「治代普顕記(じだいふけんき)」「足利市史」『姓氏家系大辞典』(尾池氏の項)などがありいずれも保護した人物の名が異なり、そのほとんどが「奉公衆」の家柄である。
⒁ 石谷頼辰が「山崎の戦い」の後に土佐に逃亡し、長宗我部氏に仕えていた(『元親記』、林原美術館所蔵『石谷家文書』)。
⒂ 江戸幕府で「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝(こんちいんすうでん:寛永十年没)は奉公衆一色氏出身であり旗本斎藤氏、春日局などは光秀重臣の家系である。明智秀満の子は寺沢藩重臣三宅重利であり子は細川藩藩士となった。細川家を中心に幕府、諸藩にも「奉公衆」や光秀家臣の人脈は義辰が細川藩に迎えられるまで継承されていた。
⒃ 寛永十四年(一六三七)十一月二十二日に細川藩藩主細川忠利は「尾池義辰宛書状」で献上された信長の兜はもらい槍は返すと記した(『細川家文書』)。これは本能寺での戦利品と推定される。
⒄ 進士晴舎の娘は義輝の側室小侍従であり少なくとも女子が三人いた(『足利季世記』『言継卿記』フロイス『日本史』)。義輝の側室で知られている人物は小侍従だけであり光秀の子として知られているのは織田政権で重要人物であった荒木村安・明智秀満室、織田信澄室、細川忠興室娘三人と光慶である。
⒅ 光秀の肖像画の戒名は義輝の辞世の句「五月雨は露か涙かほととぎす我が名を伝えよ雲の上まで」を連想させる「輝雲道琇禅定門」である。義輝+雲+道+琇(光秀)、光秀=光(光源院=義輝)。光源院の秀でた者
⒆ 義輝政権で「御成」等の儀礼式法を担当していたのは進士晴舎であり織田政権では明智光秀であった。
 以上の事実経緯を整理し統合して考えると、それは状況証拠ではありますが明智光秀は進士藤延であり妹妻木は義輝の側室小侍従、光慶は義輝の子尾池義辰となります。光秀の三人の女子の実の父も義輝と思われます。信長と幕府のパイプは当初から細川藤孝、和田惟政、大草公広などが担当していたことは複数の基本史料から確認されるので光秀は義輝の遺言執行人ともいうべき立場にあったと推察されます。そして光秀は「山崎の戦い」まで足利幕府の再興を一貫して目指していたということになります。光秀にとって信長とはあくまでもそのための手段であったのです。
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