Profile cover photo
Profile photo
砂上の空論
7 followers -
福岡を中心に活動しているおたく系評論サークル
福岡を中心に活動しているおたく系評論サークル

7 followers
About
砂上の空論's posts

Post has shared content
原稿候補
映画 ふたりはプリキュア Splash Star チクタク危機一髪!

 この作品をプリキュアの映画としてみた場合、咲と舞の仲違いを導入にし、仲直りをクライマックスに持ってきたという感じか。
 仲直りは予定調和的ではあるのだけど、2回目の変身が仲直りの結果として、TV版の変身バンクとは全く違うイメージで描かれていて、感動的だった。
 仲違いした時の不安感やお互いを必要とする気持ちの描写が素晴らしく、それが、永遠の友情を誓い合うのに繋がり、大きなお友達的にはそこに百合的な要素を見いだしてしまう。

 この作品は「時間」をテーマにあつかった所から、SF的とも受け取れるのだけど、そのあたりの理屈を理解しなくても、前述の通り仲直りの物語としてみても楽しめるというのは、さすがというべきか。
 TV版を全部見た後に見たからというのもあるけど、敵のサーロインがダークホールってのはわかりやすかった。なぜわかりやすかったのかというと、アクダイカーンが掲げる“滅びの思想”はビッグバンを目指していて、ビッグバンまで行くと、おそらく時間の概念も変わる可能性があるから。ビッグバンによる虚無と時間を止める事による虚無ってのは似ている所があると考える。なので、実際にはサーロインがアクダイカーンの配下ではないとしても、ダークホールと思想が近いというのはわかりやすい。

 時間物のSFとしてみた場合、王道な分、複雑になりがちな所を、本作はそこそこ深くかつわかりやすさを両立していると思う。
 時間物が持つ不思議さをフラクタル図形のようで、なおかつワープも伴う砂漠の迷宮で表現しつつ、「同じようで同じじゃない」と言ったセリフを挟む事により、時間の概念の解説を簡潔にしつつ、ちょっと深読みをすれば、普段ぼくたちが享受している永遠のような日常も時間が経過すると「同じようで同じじゃない」とも読み取れる。なぜこの短いセリフから日常に結びつけるかというと、プリキュアという物語は「日常」を守る物語だからだ。
 また、幻覚的に、咲と舞がお互いの幼い時(TV版の昔幼なじみだったというエピソードの引用でもある)の姿をゆがんだ形で見る事により、かけがえのない人とは同じ時間を過ごしたいと表現する。「同じ時間を過ごしたい」というのは文字通りの意味以外にも、SF的に解釈して、「同じ時間面を過ごしたい」としても逸脱ではないだろう。

 ゲストに向井亜紀氏が出てきたのは正直驚いた。筆者はあまり氏の事を知らず、見終わったあとWikiペディアで調べた程度の知識だが、そこから把握できた事は「代理出産の子を戸籍的に実子と認められるように一線で活動している人」という点。
 プリキュアという作品を全体で眺めた場合、「古い既成概念の刷新」「義理家族も家族」という要素は各作品に見られるので、単純に母親受けを狙った配役ではなく、制作側の信念のひとつであろう。セリフらしいセリフがなかったのは、作品の雰囲気を壊さないためなのと教科書的にしないためであろう。

 時計の力のモチーフが干支だったのは、「花鳥風月」をメインモチーフにし、敵は「五行思想」というモチーフは東洋テイストのS☆Sでは必然的か。しかし、あまり語らず、絵で少し見せただけというのは親切設計のうちだろう。

Post has shared content
ハトプリの原稿。今回はあんまり長くないです。
ハートキャッチプリキュア

 ハートキャッチプリキュアは筆者が「別格に」と言ってしまうほど好きな作品である。そのため、有り体に言えば“書きづらい”作品でもあり、客観性を失ってしまう可能性もある事を最初に断っておきたい。そのため、やや押さえた書き方を試みる。

■優秀な物語の基本設計

 ハートキャッチプリキュアは、物語の基本設計(プロット)から素晴らしい。「怪人を倒して日常を守る」という「プリキュアの基本フォーマット」は踏まえつつ、心のネガティブを怪人であるデザトリアンとして可視化することにより、個々の問題を解決していく。
 プリキュアらしく肉弾戦バトルこそあるが、プリキュアと砂漠の使徒の対峙は心の問題に対して切り口を多角的に捕らえた論戦ともとることが出来る。“お約束”どおり、プリキュア達がほぼ毎回勝ち、デザトリアンを「浄化」する。プリキュアが勝ったからと言ってプリキュア側の意見がそのまま問題解決とイコールで結びつかず、「心の花を枯らしたゲストキャラ」とそれを取り巻く人物達が自分たちで解決方法、落としどころを見つけていく。
 基本1話完結でバトルシーンもあるという尺の短さでもったいない感じも多少はあるが、多くの話が短いながらもうまくまとめられている。
 尺の短さ故に話の展開が濃厚だ。この濃厚さは女児的にはわかりにくいという欠点があるかもしれないが、アニメを見慣れた“大きなお友達”なら問題はない。

■デザトリアンは“敵”ではない

 デザトリアンは敵ではない。
 「敵を倒して日常を守る」とプリキュアのフォーマットから見れば、デザトリアンはその“敵”なので、プリキュアとバトルを繰り広げる。
 しかし、ハートキャッチの物語を心の問題と考えた場合、デザトリアンは敵ではなくなる。デザトリアンは主にゲストキャラの枯れかけた心の花からうまれる。この枯れかけた心の花というのは、ネガティブな心だろう。
 デザトリアンはゲストの閉ざしていたネガティブな心の代弁をし、周囲はそれを聞き、様々な反応をする。
 デザトリアンは心の吐露であり、向き合って受け入れる必要のある心の一部だ。

■なぜ「プリキュア」か

 ゲストキャラの個人個人の問題を丁寧に取り上げる女児向け作品は「おジャ魔女どれみ」がある。ハートキャッチのキャラクターデザインはおジャ魔女とおなじ馬越氏、シリーズ構成は山田氏だ。ネットでは「おジャ魔女プリキュア」と揶揄する声もある。おジャ魔女のリバイバルと受け取っても認識に大きなずれがあるわけではない。
 ハートキャッチを評論する時に「おジャ魔女をやれば良かったのでは」という論調はあり得るだろう。プリキュアは「敵と戦って倒す」という“お約束”がある分、おジャ魔女より日常パートにさける尺が短くなるからだ。しかし、筆者はおジャ魔女のような物語をプリキュアでやった所にも意義を見いだす。それは、プリキュアがシリーズを重ねてきた今となっては、女児達にとっての憧れはプリキュアなのである。その憧れのプリキュアが濃厚な物語をやる事が重要なのだ。その女児達の“憧れ”に繋がる要因の一部が、「敵と戦って倒す」事によるカッコよさだとすれば、バトルの流れも必要な要素である。
 また、前述した通り、デザトリアンとの対峙は戦闘シーンとして描かれるものの、ネガティブな心との対峙でもあり、心を通わす過程の一部になっていて、「戦闘が無駄」といえる話は少ない。

■ゲストこそ主役

 ハートキャッチは多くの話でゲストキャラが出てくる。“ゲスト”と書いたが、心の問題を主題にするハートキャッチにおいて、そのゲストとは主人公に他ならない。物語全体としてみるともちろんプリキュア達が主人公なのだが、話単体で見ると、ゲストのための物語となっている。
 ゲスト達はその回では主役となり、成長したり、心の問題を乗り越えたりしていく。また、心の問題は誰もが抱える可能性がある物として描かれる。つまり、すべてのキャラクターが主役になり得るのだ。これはハートキャッチの素晴らしい点と言えるだろう。
 心の問題をゲストやその周囲が解決し、プリキュア「だけ」が「すっきり」して終わらせないのである。

■個々の物語と全体の物語

 1回1回の話に区切って見ると、前章の通り、ゲストが主役になる物語として描かれているが、ハートキャッチは全体の物語も秀逸だ。つぼみとえりかの成長を4クールかけてじっくりと描いているのもその一つだが、ゆり/キュアムーンライトとダークプリキュア、そして、サバーク博士の3者の物語は特に深く描かれている。
 その3者の物語をゆり視点で見た場合、女児向けアニメ作品とは思えないほどの酷な物語である。
 ゆり/キュアムーンライトはさらに、相棒の妖精コロンとのエピソードも酷だ。相棒の妖精が死んでしまうというのは他の作品では殆ど見られない。コロンとのエピソードはまるで未亡人のようだ。救い的に年下の“恋人”が出てくるが、彼が成長するまでに心の傷を癒すということだろう。
 その酷さができるのも、「ポジティブ」を属性として内包した「プリキュア」というシリーズ故であろう。

Post has shared content
プリキュア論の原稿
フレッシュプリキュア

■フレッシュプリキュアは女児に向けたSFだった

 フレッシュプリキュアはまれな女児向けのSFアニメだった。それは敵組織ラビリンスを中心とした設定で、ちょっとした青年向けSF(に見せかけた)作品よりも、SFエッセンスが濃厚な作品だ。
 大きなお友達を除く視聴対象者の女児達はフレッシュプリキュアをSF作品とは認識しないであろう。
 その世界観の作り込みはSF的には王道的だが、王道故に基本がしっかりしている。
 未就学児の女児をメインターゲットにした作品でこれだけ骨太なSF作品が出来たというのは、「プリキュア」というフォーマットを利用したおかげだともいえる。「プリキュア」という固定概念があるので、難しい話をしても、「プリキュア」として単純化することが出来る。
 本作をSF作品という認識をしなくても、「女の子がプリキュアに変身して悪いやつと戦う話」という捉え方でも問題はない。
 失敗しているSF作品の一つにSF的設定を受け手に押しつけがちという点があると思うが、本作はそもそもSF的設定は表層からは隠蔽し、それに気がついた人はさらに楽しめるという構造になっている。

■管理国家ラビリンス

 ストーリーの端々から、プリキュアに敵対する組織「ラビリンス」が極度に管理された国家というのが見えてくる。
 出生率や死亡を管理するというセリフはストレートにそれを示唆している。また、ラビリンスの出身である、せつなやウエスターはドーナツに感激し、せつなは執拗にピーマンを嫌がる。それから察するに、ラビリンスでは食事も完全に管理下に置かれているのだろう。具体的に想像してみれば、カロリーメイトとサプリ程度の食生活というのが見えてくる。
 また、出生もコントロールされているため、「家族」という概念はない。
 そのため、ラビリンス幹部だったイースはラブを中心とした“家族”を知り、ラビリンスと対峙することを選ぶのだ。キュアパッションと化したイースは「悪いやつだから倒す」という単純性ではなく、個々の幸せとは何かというのを自身で考え、ラビリンスの住民を変えようとするのだ。
 また、どう見てもウエスターより有能そうなイースを捨て駒としてあっさり捨てられるのも管理国家ゆえんであろう。住民を管理するということは、成績上位は簡単に把握でき(把握しているのは上位だけではない)、文字通り“代わりの駒”を探すのにさほど手間がかからないのであろう。

■無限のメモリーで世界を支配するということ

 中盤からのキーになってくるのが「無限メモリー」だ。ラビリンスは無数に存在するパラレルワールドを支配するのに必要な物としている。それは、ご都合主義的な魔法のアイテムではなく、また、強大な武力でもなく、無限のメモリーそのものがラビリンスのいうところの「支配」に必要なものだ。
 メモリーと言った場合、「人の記憶」とも「データの記録」ともとれる。しかし、この場合はどちらでもかまわないともいえる。なぜ、どちらでもかまわないとかというと、管理社会ラビリンスにとって「人の記憶」とはデジタルデータ化できるものとして捉えるからと考える。
 ラビリンスのいう「支配」とは、DNA含め、ありとあらゆる物をデータ化し、管理することであると推測できる。
 そして、時間跳躍によるパラレルワールドが存在するなら、パラレルワールドは無限に存在することになる。
 少し脇道に入るが、筆者はラブの祖父のエピソードは時間遡行によるパラレルワールドと考える。理由としては、ラブがプリキュアになってラビリンスと対峙した後でなければ、過去へ時間遡行することも、他のメンバーが“過去へ”メッセージを送ることも出来ない。これは時間の概念の捉え方にもよるが、時間遡行による世界線の移動がおきていると筆者は推測する。世界線という概念を持ち出すなら、平行世界、つまり、パラレルワールドが存在することになる。多少理屈っぽいと自覚する筆者でも、女児向けファンタジー作品なら、そこまで考察はしない。しかし、フレッシュプリキュアという作品は、敵組織ラビリンスがパラレルワールドの支配を企むという話で、別のパラレルワールドへの移動や干渉能力を持っている。つまり、パラレルワールドは存在する世界観であり、時間遡行するなら、世界線の移動を伴う世界観でもこじつけ的ではないだろう。
 話を戻すと、その、無限に存在する全パラレルワールドをデータ化し管理するには、文字通り「無限」の「メモリー」が必要になるのである。
 ラビリンスは極端に描かれていて絵空事であろう。しかし、人間のデータ化というのは現実で進みつつある問題だ。
 管理国家といえば、間違った共産主義国家を連想するのはたやすいが、ソ連が崩壊して20年以上経った今では遠い話すぎて暗喩になりにくい。
 あえてわかりやすい所でいえば、学校による生徒/児童のデータ化であろう。通知表はもとより、全国テストやそれに関連した偏差値などでデータ化されている。「どの高校・大学に入るか」は、個性よりもデータ化である「成績」に左右される。
 データ化を欲しているのは、学校だけではない。「国民総背番号」といわれる法律もそれ自体に悪意は感じないが、国が国民をデータ化し管理したい欲求による物だろう。
 また、インターネットの世界はもともとデータ化と親和性が高く、データ管理社会が進んでいるともいえる。amazonで買い物をすれば、割と高い精度で趣向にあう“おすすめ商品”が表示され、googleは全てのデータをgoogleで検索できるように進化していっているように思える。
 amazonやgoogleによるデータ管理化は利便性とも密着している話で、その利便性になれた身としては、データ支配による管理社会が透けて見えていたとしても抗いがたい。
 今の時点では「そうはいっても、心までは支配されないだろう」とも言える話でもあるが、田舎住まいの筆者としては、amazonで売ってない商品は「入手できない」にかなり同義に近い。また、日常的にgoogleで検索をしている身としては、「google検索でヒットしないwebサイト」は存在しないのと同義に近い。『我々はすでに管理されているとも言える』

■クローバータウンストリート

 プリキュア達は主にクローバータウンストリートで過ごす。
 このクローバータウンストリートとは、管理国家ラビリンスと対になる存在である。
 クローバータウンストリートは寂れた商店街にもならず、ショッピングモールにも浸食されていない、ある意味「ファンタジー」な商店街だ。
 多少余談的になるが、ショッピングモールは管理社会と親和性が高い。買い物も食事も娯楽もショッピングモールでまかなえばいいのである。よって、ショッピングモールは管理国家ラビリンスに対抗しうる“力”を持ち合わせていない。
 クローバータウンストリートは“人情”が及ぶ範囲の社会とも言える。それは「○○商店が困っているなら助けに行こう」というのが通用する社会である。「amazonがあるから、あそこの商店がつぶれてもしょうがないよね」とはならない。人情の社会の象徴として昔から変わらず人々を見続ける駄菓子屋が登場する。
 クローバータウンストリートが四ツ葉町商店街から名前を変えたのは、世の中に迎合しつつも、存在を保っている象徴であろう。
 しかし、危ういバランスのうえで成立している話だ。ラブ家の話である。ラブの祖父は手作業にこだわる畳職人だった。しかし、一人娘の婿がサラリーマンということで、店を継がせず祖父の代で終わらす。これは、機械化による合理化を進めた他店に淘汰されたとも受け取れる。もし、職人技の畳に需要があるなら、血縁者ではなくても跡継ぎは自然発生的に出てきたであろう。「クローバータウンストリート」というちょっと浮かれたネーミングをしつつ、現存の商店街が抱える問題を作品にとり入れた点だと思っている。

■守る“日常”の可視化

 フレッシュプリキュアではプリキュア達が守る「日常」をクローバータウンストリートという形で可視化した。
 他のプリキュア作品も主に学園生活を「守るべき日常」として可視化は行われている。しかし、最終決戦に近くなると、「世界を守る」事が命題になるため、守る対象が大きすぎて漠然としてしまう。
 その点、フレッシュプリキュアでは管理国家ラビリンスではなく、自分たちが選ぶ「未来」「日常」として、クローバータウンストリート(と、公園)を表現している。もちろん、こちらの世界全体がラビリンスに支配されるという危機はあるものの、プリキュア達が守る社会の具体的縮図としてクローバータウンストリートは可視化されたと考える。

■せつなという普通の女の子

 元ラビリンスの幹部イースは“せつな”としてプリキュア陣営になる。せつなというキャラを属性で見た場合、「元敵幹部」という点以外はきわめて普通の女の子だ。勉強が得意なわけでも、運動が得意なわけでも、女の子女の子した子でもない。そこに重要なポイントが潜んでいると考える。せつなというキャラにとって「普通」という属性が何より重要なのである。どういう事かというと、ラビリンス産まれでラビリンス育ちで、つい最近まではラビリンス総統メビウスに忠誠を誓っていた人も、こちら側では“普通の”女の子なのである。つまり、ラビリンスの住民達は「普通の人達」なのである。
 コンプレックスの固まりでもなく、特別な野心があるわけではない普通の女の子が洗脳次第では総統に命をかけて忠誠を誓う幹部になるのである。
 ちなみにプリキュアのテーマ、キュアピーチ「愛」、キュアベリー「希望」、キュアパイン「祈り」と、行為などを差し、その結果として、キュアパッションは「幸せの証」と高らかに宣言するのである。

■カオルちゃんのドーナツ

 フレッシュプリキュアのキーのひとつに「カオルちゃんのドーナツ」がある。
 ドーナツとは精製された小麦粉と砂糖と油の固まりで、カロリーは高いが栄養価は低い。
 なぜそのドーナツがキーになるのか。
 前述もしたが、ラビリンスにおける食事というのは、カロリーメイトとサプリメントといった、効率を重視した物であろう。そこには個人の趣向が入る余地はなく、現実のカロリーメイトにあるチョコ味やチーズ味といった味付けもない可能性が高い。バランスよく栄養が取れて計算の範囲内ぐらいに健康に育てばそれでよいのである。そこには単にカロリーが高いだけのドーナツが入る余地はない。
 逆説的に食べるものが管理されていないこちらの世界では、カロリーが高いだけの、しかし、甘くて美味しいドーナツを食べる自由がある。
 ラビリンスの住民による市民革命は最終決戦というクライマックスに合わせられたため、充分に描写できたとは言い難いが、ドーナツを食べる自由と通して、女児にもわかりやすい“市民革命”を表現できたとも言える。少し大げさに言えば、フレッシュプリキュアにおいてドーナツとは人間性の象徴である。ドーナツに心酔した敵幹部ウエスターはドーナツに関わる時は特に人間らしく描かれている(それ以外でもかなり人間くさいきゃらではあるが)。
 

■プリキュアへのスカウトを断るミユキさん

 イースがキュアパッションとなる以前、ダンスのコーチであるミユキさんに「プリキュアにならないか」とスカウトするが、「ダンスに命をかけている」と断られる。「プリキュア」を概念的に見て女児達の憧れとするなら、プリキュアというのは「カワイくて」「カッコよくて」「踊れて」、ついでに「世界も守っちゃう」スーパーアイドルである。毎作キャラソンが出ている所からするに「歌える」と思っている女児も多少なりともいるであろう。
 その視点からすれば、「ミユキさんもプリキュアになって踊ればいい」と思うだろう。しかし、ミユキさんは物語の構造で言うと“道を指し示す大人役”である。
 プリキュアのマルチ性はプリキュア5の主題歌を引用すれば「大きくなったら何になりたい? 両手にいっぱい 全部やりたい!」である。この欲張りな感じは、大きな可能性を秘めた中学生だから許される的な所がある。中学生という具体的時期をあえてぼやかすなら、思春期とも言い換えられる。その時期の「両手にいっぱい、全部やりたい」というのは、可能性が秘められているという点で、大いに肯定される物だろう。しかし、私たち“大人達”は、何かを捨てて何かに専念する大切さというのを体験的に知っている。その大人の象徴がミユキさんでもあるのだろう。
 それに隣接した話で、プリキュアを支えるテーマに「願いは諦めなければ叶う」というのがある。それは、まだ、何の才能を秘めているか見当も付かない思春期の応援としては妥当な物であろう。しかし、現実としては、「叶わない願い」もある。一方で夢を叶えた人は「諦めなかった」からとも言える。また、夢を叶えるために諦めたこともあるだろう。
 しかし、その大人の見方はプリキュア達が少し大人になってからでも遅くはないだろう。
 プリキュアのテーマ的に言い換えるのであれば、プリキュア達が守るのは「日常」であり、その日常を守るという「夢」のためには諦めてはいけないという話だろう。

Post has shared content
プリキュア5GOGOの考察
プリキュア5GOGO

■権威としてのエターナル

 GOGOの敵、エターナルは前作プリキュア5(以下5と略)の敵、ナイトメアと同じように、現実世界の「会社」のような組織である。
 エターナルが強大な敵であろうと、プリキュアという物語の上では、負けるのが確定している組織である。負けることしかない敵をどうやって強く強大に見せるかはスタッフの腕の見せ所だろう。
 エターナルの場合は、プリキュアに負けると「組織として対処すべき問題」として、担当した幹部に「報告書」の提出を義務づける。そのため、プリキュアが勝ち続けたとしても、プリキュアに対する報告書はたまり、それがデータの蓄積になり、逆転する可能性を秘めるのだ。それにより、エターナル側がいつ勝ってもおかしくないという演出が成り立つと見る。
 エターナルは「会社」のような組織であると前述したが、具体的にいえば、行政的意味での権力を持った「役所」に近い組織であろう。
 エターナルは世界中にある「宝」を鑑定し、「価値がある」ものなら収集する組織である。
 つまり、宝を鑑定する能力があり、それを権威として、価値の有無を判断している。
 ちょっと話を分解してみよう。
 現実世界において、「宝」が指すところの、芸術品や骨董品は専門家という権威がどれほどの価値があるかを鑑定する。
 芸術品は骨董品の価値はその品に至までの経緯を把握しないと価値が十二分にわからない。その知識を普通の人に求めるのは酷なので、専門家が行う価値の判定を信頼する事になる。この専門家が“権威”である。
 この場合の権威は否定されるものでは無い。それは権威ある専門家が本当の知識を有している場合の話である。しかし、この場合の“本当”とは価値観によって変わる物であり、ある見方をすれば“本当”に見えても、別の見方によっては“本当”じゃないかもしれない。ある権威を信用するのは自分自身の見聞を広めるのに有効である。しかし、権威を盲目的に信じず、その権威が権威と呼ぶにふさわしいかどうかを見極めることが重要だ。
 「どの権威を信じるか」というのは、どの政治思想を支持するかに近い部分があり、単純に正解を導けない。たとえば(例えになっていないが)「ある政党が出した法案」というのは、“ある政党”の権威によって出された法案とも言える。
 その、単純に正解が導けない“権威”を、強引に一極化させたのがエターナルのやりかたと言える。
 対してプリキュア側は、権威の押しつけを拒み、その物にこめられた想いが大事だとした。実は、これも、“プリキュア”という権威が出した答えである。
 権威と反権威の対立ではなく、権威の一極化と多様化の対立軸である。
 たとえ話をしよう。「大きな古時計」に出てくる古時計を「百年前から動いていた時計だから価値がある」とし、他の価値観を認めないのがエターナルで、プリキュア側は「おじいさんの古時計」とする。おじいさんの古時計とした場合は、その“おじいさん”が祖父なのか、他人なのかで価値が変わる。つまり、人によって価値観が変わるのが当たり前とした考え方だ。

■夢から目標へ

 前作5は「夢と現実」の物語と筆者は評しているが、GOGOは、その夢に具体性を持たし、「目標化」していく物語と捉えている。
 のぞみは「学校の先生」を目標とし、りんの弟妹の家庭教師を行うエピソードで、のぞみの夢は絵空事ではないとしている。
 りんはアクセサリーデザイナーを目指し、ナッツハウスの商品を作成したり、アクセサリーを付ける兄と迷子の妹のエピソードでアクセサリーの意味を再確認する。
 うららは女優になることを目標とし、現状の「アイドル」という立ち位置をより充実させたり、オーディションに挑んだりする。
 こまちについては前作5でも自作の小説を投稿するなど具体的行動に移していたので、GOGOでは姉を出し、和菓子屋の後継者の話を絡めたりする。
 かれんは医療関係を目指すとし(医師ではなく、医療関係としたのは、看護師も範囲に入れることにより、より現実的にしたのであろう)、勉学に励む。また看病するエピソードで病気や怪我に対しては医師や看護師以外は無力だけど、自分に出来ること(看病)を出来る限りする話をする。
 つまり、5では漠然とした夢を持っていて、プリキュアに専念していた面々が、GOGOではそれぞれの夢に向かって具体的行動をはじめ、自立の物語になっている。結果的に、一緒にいる時間が減っている事にも繋がっている。序盤にスコルプに「欲張りすぎてどれも中途半端」といわれるが、終盤にはそれぞれの夢を大事にしていく。
 のぞみがりんの弟妹の家庭教師をやるエピソードで、「何で勉強しないといけないの?」という問いに「花を咲かせるための肥やし」とした。花とは夢の実現であり、肥やしは勉学だけではなく、アクセサリーのデザインに悩むりんも、小説を書き続けるこまちも肥やしになっているであろう。
 そしてラストの暗喩である。
 種は対象視聴者の幼児であろう。どの種だって花を咲かせる可能性があるし、より綺麗に咲かせる為に様々な肥やしが必要だろう。大きなお友達的には「根腐れする可能性もある」と思ってしまうが、それは、笑い話としておいておこう。

 この章の最後になってしまったが、ミルキィローズはパルミエ王国の象徴であり、当事者としてプリキュア達と戦っている。ミルキィローズの夢はパルミエ王国の繁栄であり、そのための目前の問題として、国王のココとナッツを守ることが目標だ。そのため、現実に繋がるプリキュア達とは別の描かれ方をしている。
 たとえば、竹取物語をモチーフとしたエピソードの時、のぞみは「帰りたくなければ、帰らなければいいじゃん」とし、ミルキィローズは「待っている人がいるのだから、帰るべき」という。これは、主にココとこちら側の世界で痛いと思っているのぞみと、パルミエ王国の復興が第一のミルキィローズの見解の違いであろう。

■リアルすぎるブンビー

 ブンビーというキャラは特異な敵キャラだ。オッサンの敵キャラなのに制作側の愛を感じる。それは5のナイトメアと、GOGOのエターナルが現実すぎるのである。5ではプリキュアに負けがこんで業績不振になり、年下上司(推定)のカワリーノ直轄の部署に吸収される。5終盤でナイトメアに見切りを付けるものの、かろうじて転職した先のGOGOのエターナルではお茶くみが主な仕事のように見える。せっせと書いた報告書も目を通さずゴミ箱行きというパワハラも受ける。お茶の領収書も受け取ってもらえない。
 敵の“幹部”というには世知辛い。
 そんなエターナルにおいて、ブンビーは居場所が無くなっていく。彼が居場所を無くしたのは彼自身の責任というよりは、彼を雇用しているエターナルに原因が多々ある。彼に労働者としての適切な役割や居場所を与えればプリキュアを襲う理由が無くなる。もっとも、エターナルで役割が与えられるという事はプリキュアを襲う仕事になるのだが。
 そして、ブンビーはプリキュアになれないオッサンである。「プリキュアのリーダーになる」というのは極端な話としても、そう言い出す時点で、ブンビーのエターナルに対する忠誠は無いのである。つまり、ブンビーが若い女の子のキャラなら、プリキュアの味方になれていた可能性を秘めている。
 プリキュアこそになれなかった彼だが、最終話では、小さいながらも独立した会社を構えるという“救い”が用意されている。現実的すぎて世知辛い彼を“倒す”物語にはできなかったのであろう。

■敵幹部の悲恋物語

 5、GOGOの大きな要素にのぞみとココの恋愛物語がある。一般人と王子という結ばれにくい立場での恋愛はある意味王道だ。ポジティブが信条のプリキュアにおいて悲恋は似合わない。
 そのため、悲恋の物語が進行するのは敵側である。
 エターナルの館長はフローラを手に入れたいという願望に変えられているが、館長なりの愛情表現で、フローラを好いていると捉えても問題無いであろう。そして、その館長に幹部のアナコンダが想いを寄せている。こじつけではなく、この三角関係があるため、フローラが館長に宛てた手紙をアナコンダが隠し持っていたのだろう。GOGOにおいて“手紙”は重要な要素で、単純に紙に書かれた文面と言うより、“想い”の物質化だ。つまり、アナコンダが手紙を隠し持っていたのは、フローラから館長への“想い”が伝わるのを阻害していたのである。
 その三角関係はアナコンダと館長の消滅という悲恋で終わる。最後に光の中からアナコンダが館長を迎えに来たのは「あの世では一緒に」的で悲恋であろう。

■ココは政略結婚すべき

 パルミエ王国は周辺を4つの国に囲まれていて、その一つのクレープ女王がでてくる一連のエピソードがある。クレープはココに「結婚してパルミエクレープ連合を作らないか」と誘う。これは、ごく自然な流れであろう。ココはここまで言われたら政略結婚すべきなのだ。けっしてヤキモチを焼いているとかではなく(笑)。
 なぜ政略結婚すべきなのかというと、パルミエ王国とクレープ王国が平和的に併合して安定した国家になるのであれば、それは、国民のことを思えば進んで行うべきなのである。ここに王制という足かせがある。王制は国王がそのまま国といってもよい。国王の命運がその国の命運になる。国王だけをなんとかすれば、その国はなんとかなったのも同じである。小国の国王であり、また、もう一人の王ナッツがこちら側の小国が滅ぼされた歴史を学んでいるのなら、政略結婚というのは妥当な選択肢であろう。しかし、それをのぞみとココの恋の障害とする事で、二人の恋愛の話が盛り上がるのも事実である。

Post has shared content
プリキュア論のMH部分。
ふたりはプリキュアマックスハート

■当事者としてのルミナス

 ふたりはプリキュアマックスハート(以下MHと略)は、前作ふたりはプリキュア(以下初代と略)の続編に当たる。
 ふたりのプリキュア、ブラックとホワイト、なぎさとほのかを引き継ぎ、ふたりが中学2年から3年へ進級しスタートする。
 また、光の勢力と闇の勢力が対立軸にあるというのも引き継ぎ、ブラックとホワイトは引き続き、闇の勢力と対峙していく。
 前作の初代ではブラックとホワイトの絆の物語という部分に注力されているためか、守られる対象の光の園は作中で説明があったものの、漠然とした物と言わざるを得ない。光の園の住人であるミップルとメップルは被保護者と言うよりは相棒的であり、中盤以降で出てきたポルンはパワーアップの為の存在になっていた。つまり、初代において光の園とは「妖精さんの国」程度の位置づけだったのである。
 ここで、MHの新キャラであるひかりである。彼女は光の園のクイーンの肉体とされている。物語の構造としては、光の園の象徴ととっても良いだろう。彼女は“知らない人にはプリキュア特別が出来ない”シャイニールミナスになって、ホワイトとブラックとともに戦う。ここでルミナスが「キュアルミナス」ではなく、シャイニールミナスなのは、物語内の“プリキュア”とは伝説の戦士であり、光の園を守る存在で、ルミナスは“守られる存在”という棲み分けと推測する。その棲み分けがラストへの伏線になっている。
 つまり、「ホワイトとブラックが守っているのはひかり/ルミナスのような子である」とより身近でわかりやすい方法で提示されたのがMHという物語ともいえる。
 ルミナスは弱いながらもブラックとホワイトとともに戦い、時には、守られることの多い自身に悩みを持ったりする。初代では一方的に守られる存在だった光の園だが、ルミナスを象徴とし、虹の園の象徴であるホワイトとブラックと共同戦線を張る。
 後年、魔法少女まどか☆マギカのキュゥべぇというキャラによって「魔法少女とは契約である」と語られるが、MHにおいては、守られる側も前線に立つことにより、搾取構造のないパートナー的関係が築けていると言えるのではないか。

■家族の物語

 初代がパートナーの物語だったのに対し、MHは家族の物語だったとも言える。一番象徴的なのは、ひかりとあかねさんの関係性である。物語上では、ひかりがあたかもあかねさんの親戚であるようにあかねさんの記憶を書き換える。あかねさんが親戚の面倒を見るという構図ではあるが、義理の親子ともとれる。
 初代でのあかねさんは、ラクロス部のOGという要素が強く、なぎさやほのかの姉的なポジションとして立ち回る。それがMHでは、ひかりの保護者になり、なぎさとほのかの関係性も、保護対象のひかりの友達という関係性に変わる。ここで、あかねさんの持つ属性が「姉」から「母親」に変わったと推測する。ひかりの学校のテストの成績で安心する一方、なぎさのテストの成績に興味を持つのは、姉と言うよりも友達の母親的であろう。
 また、幼女的視線で言えばあかねさんはあこがれの母親像とも言える。面倒見が良くて気さくで、ひかりを一人前としてみてくれるという点である。あまりにも理想すぎる関係からか、なぎさの母親を出し、「小言は多いけど、なぎさの事を思っているんだよ」という物語を入れバランスを保っているように見える。
 ほのかの家族の話も掘り下げられている。ほのかの両親は海外を飛び回っているという設定で、ほのかは祖母と犬と供に暮らしている。初代では単純にそれだけの“設定”だったが、MHでは、「プランスに長期滞在するから一緒に住まないか」と手紙をよこす両親に対して、ほのかは今の生活を続けることを選ぶ。親離れの物語ともとれるが、ほのかにとって家族とは、祖母と犬であると明言したという捉え方が出来る。
 対象視聴者の女児のことを考える時、見ている女児達が全てが、なぎさ一家のような基本的核家族だとは限らないことを考えると、ひかりとあかねさん、なぎさと祖母の組み合わせのような多様性のある家族を暗い話としてではなく描くというのは十分に意義があることだと考える。
 義理家族の物語はプリキュア側だけではない。闇の勢力側の“館の少年”を中心とした幹部と執事ザケンナーは家族的であった。こちららは坊をやや手に余し気味で、また、重要人物でもあった為、甘やかすような家族だ。孫を甘やかす祖父母という構図にもとれる。
 MHはその4組の家族(疑似家族)関係が道徳的おせっかいを感じさせず、自然に世界観と融合している点で評価が出来る作品であろう。

■異年齢集団による成長

 MHは異年齢集団による成長が描かれた物語とも言える。初代はなぎさとほのかの二人の絆が強くなっていく様を軸に成長が描かれていたが、MHでは対象を幼児(未就学児)から小学校低学年に合わせた成長物語ともとれる。MHで主に成長するのはひかりだが、その件は次章にまわし、その他の成長物語を探っていきたい。
 ここで焦点を当てるのは妖精達である。初代から続く物語だが、メップルとミップルはホワイトとブラックの相棒的存在でありながら、守られる存在である。そこにポルンとルルンを加え、異年齢集団としての成長物語が語られる。ミップルとメップルはなぎさとほのかの関係性で見た場合は、ミップルとメップルはお世話される側である。つまり、その関係性においては義理の姉弟ともとれる。なぎさとほのかが姉でメップルとミップルが弟と妹である。それが、メップル&ミップルとポルンの関係性を取り出すと、今度はメップル&ミップルが兄姉的でポルンが弟的な存在になる。そして、そのポルンも、ルルンが出てきた時から兄になる。そうした異年齢の集団として、各々が兄姉にもなるし、弟妹にもなり、兄姉から受けてきた“お世話”と同じ様なことを弟妹にすることで、成長していっている。
 これは、単純化された体育会系的序列ではなく、集団の中において他者との関係性を築いていく時、意識的、無意識的の区別無く、自発的に自身の役割を把握し行動する事である。
 こうした異年齢的集団というのは本論では“異年齢集団”というあまりなじみがないであろう言葉を使っているが、“社会”そのものでもあり、少人数に絞った場合は文字通りの社会の縮図と言える状況であろう。
 つまり、MHは対象視聴者に向けた社会の縮図の物語をこれも道徳的なおせっかいさを出さず、世界観になじませている。

■“人形”のルミナスが自我を得る物語

 ひかり/ルミナスは序盤、光の園のクイーンの肉体だけの存在だ。これを多少のSF的エッセンスを加えると、自我がないロボット(アンドロイド)が様々な体験を通じて自我を得ていく物語ともとれる。それは単にそう書いただけの意味に終わらず、日常にある様々なことを新鮮な気持ちで受け入れることによって、プリキュア達が守る「日常」のすばらしさを再確認する物語ともとれる。ひかりが“人間らしさ”を得ていくのとそれをフックししつつ、ひかりの成長が描かれている。
 ひかりが“人間らしさ”を得ていくというのは、ラストに非常に重要な意味を持つ。ラストのひかり/ルミナスが最終決戦の為クイーンになるのと、ひかり自身であり続けたいと思う二律背反的な気持ちに揺れ動くシーンである。もともとひかりは光の園のクイーンを復活させる為の“人形”だった。それが、クイーンになることに悩むというのは、ロボット(アンドロイド)に自我が芽生えた上の反乱的にもとれるだろう。闇の勢力と対峙するにはクイーンになる必要があるというのは設定だけでもわかりやすい。“人間らしくなる”部分については、設定以上に、物語の中で、ひかりがなぎさやほのかをはじめ様々な人間と関係性を持ち、また、あかねさんとは“家族”になり、日常を謳歌している流れから、ルミナスの苦悩が非常に感情移入出来る作りとなっている。4クールも付き合ってきたからこそ、決意して涙を流すルミナスを見て泣けるのである。そして、クイーンになることを選びつつも、ひかりとしての“日常”を取り戻すのに「ご都合主義」とは思えない。繰り返し、「答えは心の中にある」とした時点で、“日常を守る”という想いと、“日常に戻る”という想いが同じぐらい強くなった結果であろう。
 初代、MHは日常が素晴らしい物語とも言えるし、その日常を土台としたラストバトルも素晴らしかったと言える。

■異世界を守る物語から、守られた日常の物語へ

 MHをバトル物として見た場合、序盤では光の園を守る物語だったのが、ラストでは虹の園(現代)を守るものに自然とシフトしていた点が秀逸と考える。
 筆者はプリキュアを「非日常にあこがれを持たせつつ日常に戻る物語」と分析している。プリキュアは“非日常”の存在で、“日常”とは変身(変身バンク)で繋がれている。MHでは敵の襲来があると、周囲が暗くなり、“非日常”にわかりやすく切り替わっている。戦闘で壊れた建築物やクレーター化した地面は戦闘が終わると元通りになり、“日常”に戻る。
 こうして、明示的に“日常”と“非日常”を行ったり来たりしている物語だが、最終決戦で焦土になるのは“日常”の「虹の園(現代)」である。何となく漠然とした妖精の世界の「光の園」を守るのではなく、虹の園を守る物語に転換するのである。余談かつ別の原稿に既出だが、初代、MHと秀逸なのは、闇の勢力に蹂躙された世界と、第二次世界大戦末期の焦土化した町並みをだぶらせているところである。
 物語の序盤では、「何となくプリキュアに変身して平和を守ってます」的な物語だったが、4クールという長い物語の中で、守っている日常を明確にしたうえで、なぎさとほのかはそれを守る為に戦う意志を固くする。守るべき点を明確にすることで、「守ってやっている」感や「強いられている」感が無くなっていると言える。

■表裏一体の光と闇

 最終決戦でクイーンは闇の勢力を滅ぼすのではなく、バランスを取りたいとし、共存の道を打ち出した。
 単純に「光あるところに闇がある」ともとれるが、これは、突然出てきた話ではない。闇の勢力に敵愾心を感じさせない“館の少年”を出すことにより、「戦わなくてもいいのではないか」という可能性を漂わせていた。それが具体的になるのは終盤のひかりと館の少年が出会うところである。ひかりは「私たちは似ている」という。これは物語の重要なポイントであった。ひかりという存在は、初代でジャアクキングとの戦いで傷ついて自身の体を維持出来なくなったクイーンが体と心と精神が分離した結果だ。それと鏡で映したように同じ事を闇の勢力側も行っていたのである。クイーンの復活にひかりの成長が必要だったように、館の少年の成長がジャアクキングの復活に必要であったのである。館の少年もひかりとおなじように、3幹部や執事ザケンナーに家族を感じ、“日常”を築いていて、自我を得たのである。
 おそらく、低年齢層向け作品の命題か、「悪役」が倒される勧善懲悪物として、バルデス/ジャアクキングは倒されるが、それを単純な記号として受け流すことができれば、ひかりと館の少年の対話で締めくくったともとれる物語である。

■自己犠牲の否定

 自己犠牲を単純化して「特攻の美学」だとすると、最終決戦でプリキュアのブレスを壊すだけに特攻した3幹部をそれとして、その後、ブレスレットを復活させることによって、なんにもならなかったとすることにより、自己犠牲の否定の物語ととることが出来る。
 しかし、光の園の為に戦うプリキュアという括りにすると、戦う事自体が自己犠牲的にとれてしまう。それを否定するのは、プリキュアが日常を大切にする物語という点にある。日常生活の大切さを丁寧に描くことにより、「自分自身の日常を守る為に戦う」物語に転じ、自分自身のための戦いに転じているところだろう。
 これは、前述した守るべき光の園の象徴としてひかりという存在を出して、漠然とした妖精の世界を守るという話から、ひかりとの日常を守るべき大切なものという具体化をた。そして、「誰かの犠牲に上なり立つのはいやだ」と。また、あえて、光の園を守るということと、虹の園を守るということと、自身が謳歌する日常を守ることを同一線上に持ってこられた為だと思っている。作中では最終決戦で、プリキュア側がぼろぼろになって絶望の淵に立たされた時、ふと日常の話をすることにより、プリキュアとして戦う非日常と日常が等価値であると示されている。

■奥ゆかしいなぎさとほのかの物語とわかりやすさの恋愛話

 初代、MHにとって、なぎさとほのかの絆の話は骨子であるが、「ふたりは仲良し」といった直球的な単純性をだけではなく、ものすごく奥ゆかしく二人の絆を描いている。初代には仲直りの手紙が秀逸だった“伝説の8話”があるが、MHでの、ほのかがパリに移住するかどうか悩んだ時の話も秀逸だった。気をもむ周囲に対し、なぎさとほのかはどこか落ち着いた雰囲気があり、最後はラクロスのキャッチボールで締める。キャッチボールで語るというのは見方を変えれば体育会系的なのだけど、二人で何かを一緒に行うことによって、相手の表情や感情を読み取ることによるコミュニケーションととれる。大きなお友達的にはそのあたりの奥ゆかしいコミュニケーションに百合のにおいを感じ取るのである。
 その反面、なぎさの藤Pに対する恋愛話はすごく単純でわかりやすく作られている。「誕生日覚えててくれるかな」とか「試合の応援したい」とか「誕生日何送ろう」とか、実際にセリフに出して表現する。終盤での遊園地でのグループデートではなぎさ自身がなぜ藤Pの事が好きかを整理して、(聞こえない距離で)思いっきり想いを叫ぶ。
 恋愛物として王道をやっているおかげで、素直に藤Pとの関係を応援したい流れになっているが、日常を楽しむ為に必要な要素とするならば、それはほのかとの関係性だろうと百合的な妄想をしてしまっても責められることではないだろう。
 筆者は初代放送当時、ネットで「百合キュア」と比喩されていることに対し、必殺技の度に手を繋ぎ「ギュッ」と強調するところに百合的要素を見いだしているかと勘違いしていた。今回、じっくり見直してみると、百合的要素というのは日常シーンの方にあると強く感じた。その想い方はプラトニックラブ的で、友人以上恋人未満的な関係性を見せることにより、百合的要素を見いだせる作りになっている。最もその、「友人以上」というのは「親友」に繋がる話として作られたであろうけど。

Post has shared content
中の人のおたく系評論に対する基本的な考え方みたいな。
今朝RTで流れてきたツイートなんだけど、「サブカルやオタク文化を」「どうにかして」「社会を読み解く鍵にしている人って」「恥ずかしいからの言い訳にやっているんじゃないかと邪推」「面白いから支持しているだけなのに」的なヤツが。丸ごと引用するのはアレなので、伝聞風に。

いろんな方向から反論出来るのだけど、どこからしようかな。

まずは自分のスタンスから。
自分は同人でだけど、おたく系評論をやっていて、提示したツイートが指すように社会を読み解く鍵というか、大きな要素のひとつとして考えていたり。
おたく系作品と言えど、社会の影響を大きく受けているという点と、自分の得意分野から社会を見つめるというのは別におたく系じゃなくても有意なことだと思っている。
「小を見て大を語る」的な指摘を別の方からいただいたのだけど、それはある意味正しいのだけど、ちょっと見方を変えると、比喩としてはちょっと違うかなと。

サブカルって言葉嫌いなんだけど、便利だから使っちゃうけど、サブカルって若者文化なんだよね。この場合の若者というのは肉体年齢ではなく、精神年齢に近いかな。
脱線気味だけど、なんで「サブカル」って言葉が嫌いかっていうと、「サブ」「カルチャー」で「主流の文化」があっての「支線の文化」ってイメージを持っちゃうから。「主流の文化」がなくても、サブカルは「文化」として成り立っていると思っているから。世間一般で言われる文化というのは「芸術」「文学」「クラシック」あたりかなと思っている。で、この「一般的な文化」というのは、教養があるのを前提として成り立っている物が多いんだよね。教養がなくても問答無用にすごさがわかる「一般的な文化」はもちろんあるんだけど。
で、その、「教養」ってなんだろうって考えた場合、「権威」に近い気がするんだよね。で、「権威」は「権力」に近いと思う。
優れた「文化的な作品」は人によって評価が分かれて当然だとは思うけど、大系が出来ないし、それじゃ教科書に載せにくいのだよね。「一般的な文化作品」を楽しむための「教養」を「権威」が指し示して、それを「権力」が後押ししているってパターンが多いと思うのだよね。それが全てじゃないのだけど。
たしかに、教養があったほうが楽しめる作品というのは数多くにあると思う。しかし、その教養ってのは、人生経験から得たり、興味を持ったものをより詳しく知るために調べたりする過程で得るのがいいと思っている。
「この作品を楽しむためにはこれだけの教養が必要だ」って押しつけられたら、萎えちゃって、せっかくの作品がつまらなくなっちゃうし。
サブカル作品も実は「教養」が必要。萌え要素のいくつかを押さえたり、お約束パターンをある程度知っておかないとあんまり楽しめない。もちろん、サブカル的教養がなくても楽しめる作品も多くあるのだけど。
おおきく違うのは、“サブカルチャー”という軽視された状況なので、「権威」による「教養」の強制はあんまり無い所。だって、サブカルチャーを権威付けしても権力にならないから。今のところね。
サブカル系「教養」は受け手である「俺たち」で決めちゃって良いところがあるところ。「教養」といっても明文化されてないぶん、流行廃りにかなり左右されるから、かなり流動的。例えば「ツンデレ声優といえば釘宮理恵」。ほら、これって、すでに風化してるでしょ? でも、ちょっと前までは「俺たち」の「教養」だった。サブカルの教養って流動的な分新しい価値観も取り込みやすいと思っている。

ちょっと長くなったけど「サブカル」を若者文化とすると、「一般的な文化」は大人の文化って事になる。でも「俺たち」は「サブカル」でも大人でも十分に楽しめるとなんとなくは思っている。
日本でのサブカルがかなり成熟している事でもあり、先人達の偉業でもあると思う。
つまり、自分はサブカルは「成熟した若者文化」って事で、「教養」が必要な「一般的な文化」に並ぶほど文化的だと思っているのだよね。
ここまでの話は長かったけど、なぜ自分が「サブカル系評論」といわずに「おたく系評論」といっているか多少なりともわかってもらえたかなと。
ようやくここで先のツイートの反論になるのだけど、文化的な作品から社会を紐解くのは評論という視点で作品を見るとごく自然だということ。

別の切り口から。
おたく系作品と言えど社会とは無関係にいられないという事。
大きな区切りでいえば、第二次世界大戦があって、それに日本が負けたという事から、宇宙戦艦ヤマトやガンダムが生まれたって思ってる。ヤマトはそれほど詳しくないから多くは語れないのだけど、仮に日本が勝っていたとしたら、ヤマトという作品の見方はかなり変わったんじゃないかと。ガンダムはかなり意欲的に第二次世界大戦の要素を取り込んでいると思う。ジオン軍の扱いとかね。最近の作品の話にすると、ストライクウィッチーズ、あれは、冷戦が終結して数十年経った今だから、単純に第二次世界大戦にロマンを求められて、さらに萌えに転化できたと思うのだよね。
ピングドラムは地下鉄サリン事件から15年以上経ったから、オウムの様な組織を出せたと思うのだよね。
自分が最近はまっているプリキュアを引き合いに出すけど、「女の子が肉弾戦で戦う」という物語を「男尊女卑の社会」だからウケたのか「男女平等の社会」だからウケたのかを考えるのは有意だと思ってる。ちなみに自分の答えはどちらとも言えない。答えを濁すのではなくて、中間から平等よりの社会だから受けたのかなと思っている。「男尊女卑」の価値観では作品自体が出てこなかっただろうし、「男女平等」が行き届いていたら「女の子だって暴れたい」というプロデューサーの言葉は出てこなかっただろうし。
また、日本が表現に比較的寛容な国だから、様々なアニメが生まれてきたとも言える部分もある。「子供向けで暴力的な番組」という作品から、「30分丸ごとおもちゃのCM」の様な作品が許されるというのは、クリエーターの才能以前に「社会がそれを寛容する」という前提があっての物だと思っている。
笑い話じゃ済まなくなってきている気配があるのだけど、「フィクションの中での法律違反」をどこまで許容されるかってのは、社会と作品の表現に直に繋がってるんじゃないかな。法定速度を守る頭文字Dは見たくない。

また別の切り口から。
フィクションで想像力を鍛えるのは有意なことだと思う。
例えば「戦争を知らない世代は平和ボケだから戦場に行けばいい」って意見があるとする。戦争は否定する物として話は進めるけど、平和を守るために戦場が必要だとするとそれはひどく矛盾した物で、教育に戦場を必要とする方こそ平和ボケだと思う。実際に戦争をやらなくても、戦争が起こったらどうなるかって想像力を鍛えればいい話だと思う。その想像力を鍛えるため、フィクションを見るというのはアリだと思う。それらしい言葉で言えばシミュレーション出来る能力を身につければいいわけで。
戦争は大きな話にしても、親の敵としても、人を殺すのはどういう事か、身をもって体験するのは破滅を意味するので、想像の範囲ですますに越したことはないし。
例えばハガレンを読んで戦争の愚かさや命の尊さを知ることは幼稚とは思わないんだよね。

もう一つ別の切り口から。
ここ近年、「永遠に続くかのような日常」を描いた作品がたくさんあるのだけど、2011年の大震災でその永遠かと思っていた日常は永遠じゃなかったと認識するのも有意な事というか、「永遠に続くかのような日常」はリアルに近いフィクションじゃなくて、リアルから遠いフィクションに変わったって捉え方も出来るのだよね。


最後に。
いい歳こいてサブカルなんかにはまっていて恥ずかしくないのかって聞かれれば、「恥ずかしい」ともいうし、「恥ずかしくない」ともいう。それは相手を見て使い分ける。「サブカル」を下にしか見られない人に「恥ずかしくない」っていってもしょうがないし。
また、サブカル以外でも、趣味にはまることについての後ろめたさはどのジャンルでもあり得る話で。
あと、「楽しんでないの?」的な問いには、「全力で楽しんでいる」ぐらいの答えかな。楽しむあまり考察しているのだから。この辺、職業ライターではない気楽さでもあるのだけど。

余談的にちょっと別の話。
評論って一部の人に「生理的」「脊髄反射的」に嫌われているんだよねぇ。作品を語るのは「好き」か「嫌い」で十分だろって単純化しちゃったり。
多分それは、議論される怖さや分析される怖さが根底にある気がする。
あと、「小難しい理屈こねくりまわして煙に巻いているのが怖い」的な防衛本能的反応かな。
冒頭で引き合いに出したツイートはそんな意識が根底にあるんじゃないかなと、ツイート主が一番嫌がるであろう考察をしてみる(笑)。

Post has shared content
プリキュア論、スイプリの部分。
スイートプリキュア

■プリキュアの正体

 スイートプリキュアのエンターテイメント性の一つに「誰がプリキュアか?」という“謎解き”があったと思っている。
 プリキュアは1話完結が基本で、スイートもその例に漏れないのだけど、話をまたぐ“大きめな物語”もいくつかあった。その一つに、序盤(6話)から謎のプリキュア「キュアミューズ」を登場させ、その正体は誰? という所がある。同時進行でプリキュアの妖精役であるハミィのかつての親友だったセイレーンが敵のリーダーとして立ちはだかる。大きなお友達的には、「セイレーンは後々仲間になるな」とかなり早い段階から感じていた(フレプリという前例もあって)。主に筆者の話になるが、その二つの要素を合わせて「もしかしたらセイレーンがキュアミューズなのではないか」と勘違いさせる仕組みは十分にあったと思う。序盤ではセイレーンがいつ仲間になるか、キュアミューズが誰なのかというのが物語全体を引っ張る要素だったと思える。制作者側の“おとり”もいくつか仕組まれていたと思う。セイレーンがキュアミューズに“変装”できるのも引っかけに思えるし、聖歌先輩と和音の名字がそれぞれ東山、西島で、北条響と南野奏とあわせ、名字の1文字目が東西南北でそろう、というのも“おとり”をつかった錯乱作戦であろう。名前だけではなく、聖歌と和音は他のモブキャラクターと違い、髪の毛の色が金髪と青色でいかにも「プリキュアになってもおかしくない」感じを醸し出していた。
 筆者のツイッターの記録をたどると、12話で「キュアミューズはセイレーンだろう」的に、13話で「えええ! セイレーン=ミューズじゃないの?」というリアクションをしていた。それでもなお14話の時点で「ミューズ=セイレーンの気がする。良心が分離したみたいな形で。」とつぶやいている。まんまと制作者側の手のうえで踊っていたわけである。しかしそれは嫌な感じではなく、まるで推理ものの犯人を推理しているかのような感覚に近く、十分に楽しめた。そして、4人目出る出る詐欺で気をもんだのだけど。
 そして、ようやく21話で、セイレーンがキュアビートになる。「キュアミューズの正体は誰?」という謎を残したまま、4人目(チームとしては3人目)を出し、後半へ繋いでいく。そして、キュアミューズの正体がわかるのは35話になる。さらにその後5話ぐらい、アコ/キュアミューズメインの話が続く事になる。
 そういった流れで、スイートプリキュアは「誰がプリキュアか?」という「ワクワクした妄想」を受け手側に示した作品になっている。

■“軽い”プリキュア

 スイートプリキュアは意図的に“軽く”作られていたように感じる。メフィストと3バカは敵してはあんまり怖くない。ハートキャッチのダークプリキュアのような圧倒的強さと怖さを持った敵キャラもいなし、セイレーンは中盤にさしかかる前にプリキュア側に寝返る。また、話としても、ハートキャッチでは個々のゲストキャラの心のネガティブな部分に焦点を当てていて濃厚な物語だったが、スイートでは、序盤に響と奏がちょくちょくケンカするものの、仲直り前提のケンカにしか見えなく、いわば「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」的な状態だ。
 正直、筆者はハートキャッチは別格と言えるぐらい好きだが、スイートの“軽さ”は悪いこととは思わない。濃厚な物語にはどうしても「敷居の高さ」という問題が出てきて、初めて見る人にも楽しめるという意味では“軽さ”は多少なりともプラスに働くと思っている。
 そして、スイートではコメディ回も多かった。これも、敷居を低くするのに作用して、「簡単に楽しめるプリキュア」というポジションを作ったと思っている。この“軽さ”言い換えれば“敷居の低さ”が「プリキュアが誰か?」という楽しみ方に繋がったり、後述の「みんなプリキュア」に繋がっていっていると考える。

■小学生プリキュア

 プリキュアのメインターゲットは4、5歳~10歳ぐらいの女児だろう(大きなお友達を除く)。アニメで対象視聴者と同年代の主人公を出すという手法はよく見られるが、今までのシリーズのプリキュアの主人公は中学生(主に中2)であった。中2というのは先輩も後輩もいるし、女児達から見れば「あこがれの女性」的に見える年齢でもあるのだろう。また、あまり根拠のない自信に裏付けられた「希望」を掲げるプリキュア達は高校生よりも中学生の方がピンと来る。高校生になると、部活にしろ勉強にしろ遊ぶにしろ大人(プロ)に近くなり、プリキュアとの兼業が難しくなるというのもあるかもしれない。あまり良くない分析とは思うが、高校生より中学生の方が伸びしろがあるという事かもしれない(実際には社会人になってものびしろはあると思うのだが)。ハートキャッチに高校生プリキュアのゆり/キュアムーンライトが出てきたが、彼女は「先輩」であり「未亡人」的に描かれていて、単純に高校生というだけでなく、「大人」として描かれていたと思う。
 そして、スイートプリキュアの小学生プリキュアである。ちょっと斜に構えてみれば「8シリーズも重ねてきたプリキュアの中での変化球」と見れなくもない。後述するが、小学生のプリキュアというのは、対象視聴者にかなり近づいた存在で今作のテーマの重要な要素になっている。
 プリキュアというのは女児達にとってあこがれで、あこがれであるが故に「ちょっと手が届かない」存在であるのを求められている。おそらく、そのために、「小学生のプリキュア」を出したものの、「お姫様」という“あこがれ属性”を持っていたのだろう。しかし、日常パートでのアコはちょっとツン要素があるものの、身近な存在であろう。いわゆるツン、もしくはクールタイプで「どじっ子属性」や「アホの子属性」が無いのは、「お姫様属性」との兼ね合いと考えられるが、「身近」と「あこがれ」をかなりバランスよく表現したキャラクターと言える。
 この、小学生プリキュアを出すために35話引っ張ったといってもそんなに過言ではない。

■みんなプリキュア

 キャラクターとしての「プリキュア」とは“伝説の戦士”であり、神秘的な力とアイテムによって、変身し、「悪と戦う」事であり、「普通の女の子」では安々とプリキュアになれない。安々とプリキュアになれないという部分があこがれに繋がるのだろう。「プリキュア」はファッションであるとも言えるのだけど、今回はその部分は省略したい。
 スイートプリキュアも終盤にさしかかるまでは「ハートのト音記号」と変身アイテムが無いと変身出来なかった。
 ここで、クリスマス回である。ハートのト音記号を無くした状態でどうやって変身するのだろうと思わせておき、そのハートのト音記号はメイジャーランドの神秘的な力ではなく、個々が持つ心こそがハートのト音記号としたのである。
 つまり、誰でも気持ちを強く持てばプリキュアになれるとしたのである。故意的に現実と混同させるが、変身アイテムのキュアモジューレとフェアリートーンはお店で買ってこればいいのである。

■悲しみも苦しみも受け入れる

 そして、最終話である。
 白くなったノイズを象徴として、「悲しみも苦しみも受け入れる」とした。
 スイートプリキュアの年は大震災という理不尽で受け入れがたい災悪があった年である。それでも前に進むためには「受け入れる」しかない。「普通の人」では、その現実を受け入れるのは辛いことだろう。しかし、スイートプリキュアでは、「強い心を持てばみんなプリキュア」とし、「あなたもプリキュアなんだから、勇気を持って現実を受け入れようよ」という、プリキュア制作者側のめいいっぱいの励ましだったと受け取っている。
 最終話の演出としては、ラストに変身シーンのBGMを流し、変身バンクに入ると見せかけ、日常シーンの後日談的話を見せて、最後は変身して締めた。つまり、スイートのプリキュア達はスイートプリキュアという物語が終わった後でもプリキュアであり続けるという意味に取れる。筆者は「みんなプリキュアなんだから、物語が終わった後でもプリキュアでいて良いんだよ」とも解釈する。
 「震災でシナリオが変わった」というインタビューがあるが、「みんなプリキュア」というテーマはおそらく構想段階から練られていたであろう。「悲しみも苦しみも受け入れる」についても、敵勢力を「マイナーランド」「不幸のメロディー」「ノイズ」としたところから、それらも音楽の一部だという「基本設計」だったと思っている。一緒に歌を歌うという行為は身近な「ハーモニー」である。ハーモニーにプリキュアの力を見いだすのなら、「みんなプリキュア」というのは妥当な流れだろう。
 つまり、スイートプリキュアは震災があろうが無かろうが応援メッセージ的テーマを持っていて、震災の影響で応援の部分が強調された作品だと考えている。
 最終回1話前の47話でストーリーとしては不自然なほど「不幸は超えてみせる」というセリフが繰り返されたのは「応援メッセージ」を強調していたのだろう。
 後年スイートプリキュアを振り返る時、筆者はおそらく「大震災の年のプリキュア」という語り方をするであろう。推測の域を出ないのだが、プリキュア制作者側が大震災に対して最大限出来ることをプリキュアという作品で最大限示したと感じる。
 最後に余談的ではあるが、「大震災とプリキュア」とした時に、「プリキュア達が守ろうとした“日常”は大震災で大きな被害を受けたけど、みんなで頑張って復興しよう」という物語が出来る可能性もあると考えている。しかし大震災はあまりにもトラウマすぎるので、それと向き合う「プリキュア」は10年後、20年後でも遅くないと思っている。

Post has shared content
3月に出す予定のプリキュア論の一部の予定。
ふたりはプリキュア(初代)の考察

 筆者は放映当時、ネットでの評判の良さから見たことがあり、また、数年前のスカパーでの放映も追っていた記憶がうっすらとあるが、今回、改めて通してみるとプリキュアがスマイルプリキュアで9作目となる長寿作品になったのがおぼろげながら見えてきた感じがする。筆者が見返した順番は、ハトプリ→フレプリ→5→SS→初代とほぼ逆順というのもあり、正直、新鮮味みたいなものはあまり感じなかったが、さすがと言うべきか、“プリキュア”という概念を確立した作品だけはある。
 特筆すべきはなぎさとほのかの関係性である。二人でプリキュアというテーマを描くため、序盤の展開は神ががっている。特に8話を起点とした話がすばらしい。序盤はふたりは「プリキュア」仲間であるというだけで、妙によそよそしく、お互いを名字で呼びあう。1、2話ですぐにしたの名前で呼びあう他シリーズと比べると最初違和感を感じるぐらいだ。その8話というのは自分的に“伝説の”と枕詞を添えたくなる。すれ違い気味の二人が本望ではない仲違いをして、ラストでお互いの想いを手紙に書き記すのである。その手紙の特になぎさの文章が秀逸だ。8話冒頭の授業のシーンで朗読される「はるはあけぼの」になぞった“詩”になっていて、心打たれる。不器用だけどほのかを想う気持ちがストレートに伝わってきて、最後の締めに「靴下はちょっと臭い。なんちゃって」と入れることで、恥ずかしがってちょっと茶化す感じになっていて何ともいえない。これは、もう、ラブレターである。おそらく制作者側は「百合」と思って作ってない可能性が高いが、お互いの絆を確認する物語を丁寧に作った結果、「百合」ともとれる濃密な絆を描いてしまったのである。ここでプリキュア同士は絆が強いという不文律を確立したと思っている。

 筆者はプリキュアという物語は、「非日常」にあこがれを持たせ、「日常」を丁寧に描き、「変身」という要素によってその「非日常」と「日常」を繋いでいると考えている。
 1話だけであるが、初代プリキュアは「その日常がなんであるか」を描いた。28話で、なぎさの祖母が、太平洋戦争末期の焼け野原になった街を丘から眺めるシーンである。プリキュア達が守っている「日常」というのは先達達が焼け野原から復興した姿であると明言したのだ。また、その上で「希望だけは忘れちゃいけない」「希望を失わなければ明日はきっといい日になる」と希望を持ち続ける事の意義も見せる。プリキュアにおける「希望」とは多々として根拠の薄いものであることが多いが、初代プリキュアでは具体的に示したのである。闇の勢力に「日常」が浸食されるというのは抽象すぎてぼやかしている感じもあるのだが、その浸食された状況が焼け野原であると具体的に提示したのである。「非日常」の代償として「焼け野原」が提示されたともとれる。このたった1話のエピソードで初代プリキュアの「シリアス面」が大きく担保されている。

 筆者はプリキュアは二面性を持った物語と思っている。この場合の二面性というのは一見矛盾している面を双方内包していて、二律背反的ではない。たとえば、多くのプリキュアを手がけた鷲尾プロデューサーはインタビューで「女の子だって暴れたい」と答えている。これは「女の子(という固定概念)」と「暴れたい」の二面性だろう。また「日常」と「非日常」が同時進行する話の基本フォーマットも二面性といえるだろう。
 ここまでの二面性は筆者も見返す前に予測がついた。しかし、初代プリキュアでは、さらに根本的な二面性を内包していた。42話のエピソードである。相手そのものより、「相手の気持ちを思う自分の気持ちを一番大切にしたい」とした点である。これはタイトルでもある「ふたりはプリキュア」との二面性である。「二人でプリキュア」である以前に「自分自身の気持ちが大切」としたのである。二人でワンセットではなく、「独立した人格」と明言したのである。これは個人の尊重がある程度浸透した社会での作品とも捉えることができる。
 性格や行動が全く違う二人を「ふたりはプリキュア」とするために絆の物語をやる一方で、一個人としての存在の確立が見られる。

 繰り返しになるが、初代ふたりはプリキュアは長く続くシリーズの礎にふさわしい作品になった。筆者は実の所、「女の子だって暴れたい」というのに違和感を感じていて、実際は「女の子だってカッコいいのが好き」と言い換えた方がしっくりとくるのだが、初代を見返すと、「暴れたい」に力点が置かれた作品だったと感じる。その「暴れたい」という要素は変身後の戦闘シーンはもちろん、変身バンクにも濃縮されていると考えている。初代の変身バンクは歴代プリキュアの中ではあまり重視されているとは言えず、時間も短い。それの転機はおそらくSSであろう。初代の変身バンクでは単純に「戦闘スーツ」への着替えにも見えるが、SS以降では「プリキュアというおしゃれ」に変わっている。これも初代がプリキュアの概念を作り「プリキュアのようなおしゃれ」という概念になったのであろう。この「おしゃれ」になった時点で「女の子だって暴れたい」というのが「女の子だってカッコいいのが好き」に変わっていったと考えられる。

Post has shared content
コミックシティ福岡にサークル参加します。
新刊のめどが立ったのでやっと告知出来ます。
明日1/22のコミックシティ福岡にサークル参加します。サークルスペースは「キ35a・砂上の空論」です。
既刊ですが、「キュアまこぴー氏インタビュー本」が大量にあるので買ってやってください(笑)

Post has shared content
中の人が書いたプリキュアSSの考察です。
ふたりはプリキュアSplash☆Star

 ふたりはプリキュアSplash☆Star(以下、プリキュアSSと略)はどういう物語だったかと考える時に大きな要素は“満”と“薫”の存在だろう。
 敵の大将、アクダイカーンの命の灯火から分けて作られた二人は、いったんは敵としてプリキュアの前に立ちはだかる。
 しかし、満と薫は、主人公の咲と舞を中心とする人達との関係性の中から「絆」をみいだし、また、自然の美しさに触れ(プリキュアSS的に言えば、「花鳥風月」の美しさ)、プリキュアたちの味方になっていく。その中で、「運命は変えられる」というのだ。
 この、「運命は変えられる」という部分に本作の骨子を見る。
 プリキュア的ポジティブシンキングに「願い続ければ、いつか叶う」というのがある。この場合、願い続ければ運命をも変えるという事だろう。
 満と薫の「運命」とは、アクダイカーンより生まれ、ダークホールの戦士として生きる事だろう。
 滅びを信奉するダークホールの戦士から、“緑の里(つまりこちらの世界)”で人間として生きる事へ「運命を変える」事だ。
 さて、なぜ、プリキュアSSにおいて「運命を変える」事が特別視できるのかというと、この作品のメインモチーフが「スピリチュアル」だからである。ここでは「神秘主義」とする。神秘主義とはどういう事か少し端折った解釈をすると、目に見えない力を明文化する事だと筆者は思っている。つまり、「そこに花の妖精がいる」というような事を感じ取り、明確に文章にしたり、他人に伝える事が神秘主義と思っている。
 神秘主義で考えていくと、「運命」とは、すでに決まっている未来である。どのように産まれ、どのように消えていくのかは、見えざる力ですでに決まっているということになる。この見えない力の流れを可視化する行為が「占い」であろう。
 占いが成り立つ世界というのは、「未来に起こる事が確定している」という仮定無しにはあり得ない。運命が決まっているから、「占う」事が出来るのだ。そして、「占い」というのは、スピリチュアル的なものの中で、最も身近な存在であろう。
 つまり、「運命に逆らう」というのは、神秘主義の否定になるのである。
 考え方を少し変えると、「満と薫がプリキュアの味方になる」事が運命だったとも言えるが、その場合でも、「願えば運命は変えられる」のであり、運命よりも願いが上位に位置する。
 プリキュアSSはメインモチーフにスピリチュアルをもって来つつ、スピリチュアルを否定する作品なのだ。
 それは自己矛盾ではなく、神秘的なものより、「今そこにある日常生活」の方が大事というのを再確認する視点である。
 最終話付近こそ、満、薫が準プリキュア化して、「花鳥風月」の力で戦うという形になっているが、終盤からセリフの端々にも「精霊の力」より「絆の力」を重視して戦うようになっている。
 神秘主義を否定しつつも、「精霊(神)は万物に宿る」的な共存が本作のラストだと思っている。
 否定という言葉は少し極端すぎるかもしれない。潔癖的な全否定ではなく、神秘主義的運命より重要なものがあるという、やんわりとした否定だ。
 満と薫自身も含め、プリキュアたちは満と薫の神秘主義的運命を“上書きし”、彼女らを日常生活に内包していき、プリキュアから普通の少女に戻る。そして、日常のすばらしさを謳歌するのだ。

 ダークホールについても考えたい。彼らの「滅びの力」の思想は一見不可解だ。しかし、考え方によっては道理がいく。ラスト間際、ゴーヤーンが思い浮かべたイメージから察するに、「滅び」とはビッグバン寸前のブラックホールと推測できる。また「ごちゃごちゃした世界を無にしたい」的なセリフもある。それは、時が経つにつれエントロピーが増大した(散らかった)宇宙をビッグバンからやり直したいという事なのだろう。これは、「あえて破滅を望む」という考え方だ。わかりやすく身近にすれば、「人間は環境破壊するばかりだ。地球のためを思ったら滅びるのが究極のエコだ」という考え方になる。それを極端にしたのがビッグバンからのやり直しだ。これは、“神の視点”だ。世界を創造したが失敗したのでやり直したい、という事だ。ダークホールの滅びの力とは、「ビッグバンによる世界再創造」を目指した宗教なのではないか。アクダイカーンを神の偶像とし、ゴーヤーンを教祖とした宗教ではないか。この宗教は必然的に一神教であろう。他の宗教は「滅びてしまえばいい」のである。滅びなくても、宇宙全体がブラックホール化しビッグバンに至れば、あってもなくても同じである。こう考えると、終盤のゴーヤーンのセリフに筋が通って見えてくる。
 それに対しプリキュア側は「花鳥風月」で挑む。花鳥風月とは本来、自然の美しさや風流さを表す言葉であるが、プリキュアSSではそこから転じて、万物に精霊が宿るという、アニミズム的な意味になっている。
 世界再創造を目指す、“究極的な”一神教である「滅びの力」に原始的な宗教「アニミズム」で挑む。結果は書くまでもなく、プリキュア側の勝利だ。これは、「一神教よりアニミズムの方が日常的だ」ということに繋がり、至極日本人的宗教観だ。「日本人は無節操に宗教を扱い無神論者的だ」といわれがちであるが、「全ての物に精霊(魂)が宿る」というアニミズム的な、または、それを発展させ「八百万の神がいる」とした神道を無意識下に信仰している人はかなりの割合でいるのではないかと考える。
 この無意識下の「アニミズム」や「神道」が「日常」のそばにあるとしたのが、プリキュアSSのラストだと捕らえている。
Wait while more posts are being loaded