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長宗我部友親
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「絶家を思う」新講社版
時代が変わってきて、「家」というものに対する人々の思いが変わってきた。 そんな中で、長宗我部家をこれからどのように維持していくか。 いろいろ思い悩むことが多い。 少子高齢化が続く中、ただひたすら無理矢理に長宗我部の家を繋げと、子供に押し付けても、それは意味のないことであろう。それではどうしたらよいのであろうか。 そんな思いを、社会の変化を見ながら、エッセイ風ではあるが、綴ってみた。  
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「絶家を思う」新講社版
時代が変わってきて、「家」というものに対する人々の思いが変わってきた。 そんな中で、長宗我部家をこれからどのように維持していくか。 いろいろ思い悩むことが多い。 少子高齢化が続く中、ただひたすら無理矢理に長宗我部の家を繋げと、子供に押し付けても、それは意味のないことであろう。それではどうしたらよいのであろうか。 そんな思いを、社会の変化を見ながら、エッセイ風ではあるが、綴ってみた。
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「長宗我部 最後の戦い」が講談社から発売されました
 長宗我部盛親を主人公にした小説「長宗我部 最後の戦い」が、講談社から発売されました。  講談社文庫の3月発行分で、上下巻一斉発売です。作者は小説「長宗我部元親」も書いている近衛龍春さん。この著書の解説を長宗我部友親が書きました。  いろんな資料を調べて、各地に残されている、伝説などにも耳を傾けて、近衛さんの盛親像を完成させています。  徳島県の西方に位置する阿南市に残されている盛親の正室についての話も興味を惹かれます。小説では香ノ方です。  この正室は、盛親捕縛される、の知らせを聞いて、土佐から京の都に向か...
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山内さんと話したこと
大げさに言えば山内家の当主と、400年ぶりに直接お話が出来ました。 それも、土佐の鏡川沿いの郭内で。お昼をご馳走になりながら。 山内家の19代当主の豊功さんは、無口な方ですが、みるからに誠実そうです。 お顔はすこし「龍馬伝」で山内容堂役をやっている近藤正臣に似ていますかね。 そこで聞いてみたかったこと。ずばり、このことです。 わが長宗我部家の祖先、元親の末弟、長宗我部親房を継いだ五郎左衛門が、 山内家に名乗り出た理由についてです。 山内家などに仕えなくても、じっと潜んで、プライド高く暮らすのが、 最も良かった...
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大坂の陣で、深手を負った五郎左座衛門は、山内家の判断で、入牢させられた。  山内家19代の豊功氏は、「山内家としては、普通の罪びとの牢ではなく、 監視が付いた座敷であっただろう」といっている。  しかし、五郎左衛門が、他の人々、特に長宗我部侍らと隔離されたのは まがいの無い事実。この瞬間から、五郎左衛門の孤独な生活が始まった。  セミの声を聞いたり、庭にやってくる蝶などを眺めることは出来ても、実の自由は無い。 そこで、五郎左衛門の楽しみは、時として見る、「つかのまの夢」ではなかっただろうか、 と思う。  家族...
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小少将からの呼びかけ
 不思議なことがあった。 「長宗我部」を。お読みいただいたという方からの電話が掛かってきた。 聡明そうな女性だった。 家臣団の女性が電話を受けたが、あいにく私は不在でつながらなかった。 その後も、何度か電話をいただいたが、不思議にだめで、お声は聞けなかった。 ようやくつながったのが、4、5日後のこと。 その声は、電話の奥の方で、ゆらめくような感じがした。 背筋を揺すられるような感覚がした。 女性は、「勝瑞城の女城主」といわれた小少将のゆかりの方と名乗られた。 ひょっとして、あの小少将が、「自分はお前の描いたよ...
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縁しなり
 「長宗我部」を著すに当たって、「原則に」 と心に決めたことがある。  それは、末裔が自ら、わが先祖の歴史を書くのであるから、 それに使わせていただく資料類も、出来うる限り、 「末裔」によるものを使わせていただく、ということである。 「土佐偏屈人、による決め方と受けとられてもよい。そうしよう」 と思った。 そして、吉田孝世による「土佐物語」も、私家本であることを 承知のうえで、その末裔である川野喜代恵が 解読したものを基本にした。 ところが、執筆に当たって、本人には一切連絡が付かず、版元も「連絡先不明」という...
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兼平のきり
 古典能の演目に「兼平のきり」というのがある。 長宗我部家の家系で、興隆を果たした武将(国親の親)に兼序がいる。 その兼序は、周辺の土豪であった本山、吉良、山田らに、ねたまれていた。 というのも、十五代の元親以来、長宗我部は一條家など中央政権 との関係を強くして、きらびやかに見えていたようだ。 したがって、他の土佐の土豪たちには 「京の権勢をカサに鼻持ちなら無いヤツ」とはやされていた。  ある日三千の勢力を持って、兼序の居城であった岡豊が攻められる。 むろん、攻め手は本山、吉良、山田らの連合軍である。 兼序の...
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蠃姓系図
 長宗我部の系図を遡ると、「蠃姓(えいせい)系図」に行き当たる。 ところが、この蠃姓という言葉は広辞苑にも出てこず、現代では ほとんど使われなくなった、 難しい用語である。 「長宗我部」を執筆するに当たって、「闔国(こう)之部」とか、 なにやらややこしく、古めかしい表記に何度もぶつかった。  この現代ではほとんどつかわれない「蠃姓系図」というのは、 秦国に由来した系図のことである。 当時、日本には大陸から渡ってきた人々が多かった。 秦氏について、がまさしくそれである。 そして、その系図を紐解くと秦の始皇帝から...
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「兼平のきり」と伝統のすさまじさ
 兼序は、秦河勝の末裔である能俊から 19代目にあたる長宗我部家の当主である。 長宗我部家は土佐七雄の中にあって、次第に勢力を 伸ばしてきていた。 特に、16代文兼が岡豊城に関白をも勤めたことがある一條教房を招いて以来、 本山らほかの豪族らからは「一條氏の権威を借りて、驕っている」 とねたまれていた。 そして、ついに永正5年(1508年)5月、3000の兵を集めて、 本山、大平、吉良らの軍勢が兼序の居城である岡豊にに攻め込んできた。 兼序の勢力はわずか5、6百人。かなうわけがない。 覚悟を定めた兼序は、嫡子の...
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