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高杉晋作 0005-05
高杉晋作 0005-05 (5)散る桜  ここまでに、述べていたように、長州軍は、大いに奮ったが、征討軍は、一向に奮わないので、征討の実はあがらない。  この様をみた諸軍は、いずれも、戦争にあきて、一つには、幕府の無力をみくびってその命令に従わず、勝手に軍を引き上げるものもできたので、幕府は、一層、窮地に陥り、青息吐息の真っ最中、その年の八月十一日に家茂将軍が大阪で病死しました。  幕府にとっては、一大事で、戦争なんかしていられません。そこで、ひとまず、休戦の命令をくだして、諸軍を引き上げさせました。  で、...
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高杉晋作 0005-04
高杉晋作 0005-04 (4)砲烟弾雨  『我が海岸に敵を近づけさせては不利である。逆襲して敵の陣地近く、これを撃とう』  と、いうつもりで、晋作は、軍艦にのって、馬関、すなわち、今の下関を出発して、西へすすんで、筑前の大島の東へまでやってきますと、はるか、島影に敵艦数隻、列を作って進んでくるのにであった。  『敵艦、見ゆ。敵艦、見ゆ』  の声は艦内に充ちた、。  『さあ、長年鍛えた長州兵の腕前を見せてやる時が来た』  晋作はそういう言って、ほほえんだがとっさのあいだに、計略を考えて、艦を島影にかくした。 ...
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高杉晋作 0005-02
高杉晋作 0005-02 (2)惜しからぬ命  長州藩は文久三年(1863)以来、再三外艦と戦いましたが、晋作はこの敏活勇敢で有名な奇兵隊を率いて、あるいは陸に、あるいは海によく戦って功を樹てました。  たまたま、元治元年(1864)に、蛤御門の変がおこって、長州軍はほとんど全滅し、福原家老ほか、わずかの人がようやく逃げて帰ったくらいで、長州藩での有為な志士は大抵戦死をしたのは前章で述べたとおりでした。  一方、幕府や朝廷では、長州の不法を怒り、長州追討ということに相談が決まり、すでにその兵隊は西下を始めたと...
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大村益次郎 0002-11
大村益次郎 0002-11  江藤新平(えとうしんぺい)の炯眼、はやくもこれを看破して、西郷にかわるべきものを、一日も速やかに江戸へ下し、彰義隊の討滅をいそぐべし。との議を唱え、ついについにそれがいれられて、大村益次郎の東下になったのである。  西郷の手から、上野だけを引き離して、彰義隊の征討をやってみたい。と、いうことは、あまりに虫の良い主張だ。と、いわれてもちょっと弁解に苦しむまた西郷が『それは、いかん』と、いえば、それまでのことで、大村の東下は、何のためかわからぬことになる、。  こういう面倒なことを、...
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大村益次郎 0002-09
大村益次郎 0002-09  この連合を策した者は、坂本龍馬(さかもとりょうま)であって、その交渉にあたったのは、薩摩の西郷吉之助(さいごうきちのすけ)と、長州の木戸準一郎(きどじゅんいちろう)であった。  木戸の背後には、高杉晋作(たかすぎしんさく)がいて、高杉の相談相手に、大村がいた事を忘れてはならない。大村は一度も表面に立たなかったが、いつもその裏面にいて、何らかの仕事を預かっていた。その学識と智能は、連合成立の上にもよほど働いていたのである。 木戸は、初め和田姓であったが、文久政変の当時は、桂小五郎(...
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大村益次郎 0002-08
大村益次郎 0002-08  征長の役は、全く幕府の失敗であった。初め海戦において、思いがけず勝ったこともあり、大島郡を占領したことはあったが、それは軍艦の数が多かったための勝利で、戦闘が巧妙なためではなかった。  これより先、坂本龍馬は、薩長連合の策を抱いて、わざわざ乗り込んできたが、おりからの戦争に、いかんとも手の出しようもなく、とにかく、戦争の終局を待つ他はなかった。そうなると、はやくその終局をみるのが、坂本の希望であるから、高杉と大村に加勢して、自分は、毛利の軍艦にのりこみ、表面は、毛利藩士として、幕...
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高杉晋作 0005-05
高杉晋作 0005-05 (5)散る桜  ここまでに、述べていたように、長州軍は、大いに奮ったが、征討軍は、一向に奮わないので、征討の実はあがらない。  この様をみた諸軍は、いずれも、戦争にあきて、一つには、幕府の無力をみくびってその命令に従わず、勝手に軍を引き上げるものもできたので、幕府は、一層、窮地に陥り、青息吐息の真っ最中、その年の八月十一日に家茂将軍が大阪で病死しました。  幕府にとっては、一大事で、戦争なんかしていられません。そこで、ひとまず、休戦の命令をくだして、諸軍を引き上げさせました。  で、...
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高杉晋作 0005-03
高杉晋作 0005-03 (3)長州征伐  高杉晋作は下関にわたって、山縣狂介(やまがたきょうすけ)、大田市之進(おおたいちのしん)等と、謀り重臣等の俗論党を敵として挙兵の計画をめぐらせると、騎兵隊やその他の同志の者も集まって、その勢いは五百ばかりにもなったので、まず馬関の藩庁を襲撃して、弾丸や武器、兵糧等を奪い、兵備をととのえて、北東を目指した。北海岸の萩へ押し寄せるつもりです。  藩の方では、晋作らの軍を謀反人だといって、藩兵を配備し、その道を塞いだので、ここにいよいよ戦争が始まる。絵堂というところでも、...
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大村益次郎 0002-12
大村益次郎 0002-12  奥羽の乱も、会津と長岡が閉塞したので、すっかり平成にきした。函館には、榎本釜次郎(えのもとかまじろう)のひきいた、敗残の兵士が、少しばかり蠢動しているばかりで、まず天下は、元の泰平にかえったのである。  遷都のことは、多年の問題であったが、ついに江藤新平の建議によって、三傑や岩倉三條にも、異論が無いとなった以上、だれがなんといったところで、これは実行されるに決まっている。  ことに、明治大帝の聖徳は、一千年来の帝都を、たちまちに江戸へ移すことを、ご聴許にあいなり、明治元年十月十三...
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大村益次郎 0002-10
大村益次郎 0002-10  江戸の士民には、徳川崇拝の気風が、驚くべきほどみちていた。権現様といえば、ただ、訳もなくありがたがったものだ。  旗本の武士が、直参風を吹かして、さかんに町人を虐げたけれど、権現様以来のご家来だ、という点に免じて、忍び難きことにも忍んでいた。  いかに不平があっても、そのためにあえて、背こうとする意思を持つようなことはなく、権現様が、との一声聞けば、それで一切の不平を忘れてしまったのだから、はなはだ、妙である。  京都に、天子様がいらっしゃることは知っているが、自分たちは、権現様...
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高杉晋作 0005-01
高杉晋作 0005-01 (1)松蔭の訓戒  高杉晋作は、長州の人で、吉田松蔭(よしだしょういん)先生の塾に入学したのは、十九歳の時でした。  当時、すでに吉田先生の門下生には、久坂義助(くさかぎすけ)という秀才がいました。義助は打てば響くような熱血男児でしたが、粗暴に流れず、中々の勉強家だったので、松蔭先生は、  『コヤツは、見込みのある青年だ』  と、言って、義助を得難き宝玉のように愛し、ますます励まして、玉の光を発揮させようとしました。また、義助も先生の恩愛に感じてますます努めます。そして、今では塾の中...
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大村益次郎 0002-07
大村益次郎 0002-07  村田蔵六(むらたぞうろく)の名は、世にまれなほどすぐれている蘭学者として、藩中に知れ渡っているが、その人物のどういう点が、果たしてすぐれているか、ということは、ほとんど知らない者が多かった。  それがようやく知られるようになったのは、長州征伐の幕軍が、国境へ迫ってきたときであるから、物語の順序としては、まず、征長事件の内容を、説明する必要がある。  元治元年(1864)の九月十七日、京都の宮城へ押し寄せた長州藩士、その人数は、四百前後と言われているが、実際は、七百をゆうに超えてた...
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