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papo shobo
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今日読んだ本。表題中編を含む七作品からなる短編集。書名に「悪夢(nightmares)」とあるように、いずれの作品にも読み終えてなお後引くおぞましさが感じられる。オープンエンディングの多用もその効果の一端を担うだろう。しかし本書の描く「悪夢」は、恐ろしくも美しい。とりわけ「とうもろこしの乙女」と「化石の兄弟」に典型的だ。読者は狂気の中に美を見出し、戦慄しつつも魅了される。この感情は一種の畏敬だ。そこにはルドルフ・オットーの言う「ヌミノーゼ」的な対立的調和があり、その関係の上にあって「悪夢」は聖なる神秘の色彩を帯びる。

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先々週読んだ本。ドーナツ開発部の灰庭留衣を中心とした三人の女性社員の奮闘を描く。ただドーナツだけを愛し、開発部以外の社員には興味も抱いていなかった留衣が、次第に人間関係を広げ、会社のために動きだす。……というと社畜形成の話に聞こえてしまうかも知れないが、あくまでこれは留衣の自己形成であり、本作はそれを描く教養小説。とはいえドーナツは単なるマクガフィンではない。留衣のドーナツ愛が読者に感染すること必至。

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数ヶ月前に読んだ本。辺境の民政官を務める「私」の一人称小説。タイトルからベケットの『ゴドー』を連想する向きもあるが、本作の夷狄は具体像が描かれ、現に登場もする。カヴァフィス詩を想起する程度に留めるべきだろう。語られるのは「夷狄を待ちながら、自らの魂を鎮めつついかに最後の幾年を過ごしたかという物語」(pp.340-341)だが、「私」が記したのはそれではないと言う。つまり、この作品自体は作中に位置づけられない。読者は作中現在に投げ出され、「どこまで行っても際限がなくなる」正義(p.242)に照らした判断を絶えず求められている。

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今日読んだ本。これを読んで思い出したハンスリック『音楽美論』の一節をはじめに掲げておく。

「あらゆる音楽作品の性格は作者の性格と「連関」を持つことは確かであるが、美学者にとってはかかる連関は姿を見せていないのである。――あらゆる現象の間の必然的連関性のイデーはこれを具体的に証示しようとして時に戯画といってよい程に誇張される。このような研究の方向は刺戟的魅力に富み、才智を顕示することができるからして、かかる方向に逆い、「歴史的把握」と「美的判断」とは異ったものであることを公言するのは、今日真に英雄的態度を必要とする」
(ハンスリック、渡辺護訳『音楽美論』岩波文庫、1960年、p.98)

本書において、「僕」は画家ストリックランドの人生に位置付けてその最後の作品を評価している。直接見ていないから、というのも勿論あろうが、「その絵の中にこそ、彼が人生について知り、かつ望見していたいっさいのものを語りつくしていた……彼の一生は、すべてそのための苦しい準備でしかなかった」(pp.347-348)といった言は、作家としての名声がなく作品自体も評価されなかったストリックランド生前の状況を、結局のところ脱していない。ストリックランド自身が見出した美は自身の人生という文脈に依るものではなく、作品に対する作者自身の目と多くの鑑賞者の目とは、元よりその基準を異にしているのだ。作品自体を純粋に評価したのはダーク・ストルーヴ(p.116ほか)、キャプテン・ブルノ(p.319)、ドクトル・クトラ(p.345)の三人のみであった。冒頭に触れられた多くのストリックランド評を、本人が見たら何と言うか。おそらく一笑に付して省みるまい。「画家の記念碑は、あくまでも作品だ」(p.14)などと嘯きながら本書を記した「僕」に対しても、ストリックランドは再び言うだろう。「驚いたセンティメンタリストだね、君は」(p.250)、と。

※ページ数は昭和63年54刷改版による。

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昨日読んだ本。読んだらずーんと暗い気持ちになったなあ、という父の言を聞いて避けていたけど、ようやく読んだ。なるほどそんな読後感。この内容で、この終わり方。暗い余韻が残るのも宜なるかな。それはまた、懲役二年で済んでしまった勝呂医師に焦点が当てられているからこそかもしれない。償いの対象はもはやなく、裁きも罪悪感を拭ってはくれない。読後、翻って勝呂の人生を思う時、「世間の罰だけじゃ、なにも変らんぜ」(p.178)という戸田の言葉が重く響く。

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昨日読んだ本。金子薫園の妹、武山英子の(おそらく)唯一の単著歌集。本書刊行の半年後に死去。病弱で常に死を意識していたらしく、「泣く」「かなし」「さびし」等、暗々たる表現が並ぶ。療養のため教師を辞した後は家に籠もるしかなかったようで、「生れたる家に死ぬべき運命につながるるやと或はおそるる」といった歌が多い。「縁さきの塵埃の中につまだちて見えぬ彼方の秋風をきく」、耳に聞く風の行方として思うしかなかった彼方は、遂に見られなかったのかもしれない。恋人らしき「君」を詠うにも「君によりて足らひし生はたらひたるままに終りを告げなむとする」と、死の影が付きまとう。終りは「たらひたるままに」迎えられたのだろうか。

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昨日読んだ本。19世紀末に発表されたSF作品。「アンドロイド」なる語を人造人間として用いた最初の作品とされる。そのせいか、素材や機構を説明するエジソンの台詞がとにかく長い。アンドロイドの概念が定着していない時代に鑑みて当然かもしれないが、今日の目で見ると冗長な印象を免れない。また、全体に亘って哲学的な議論が多く、SFと思って読むと話が脱線しているように感じてしまう。その議論の核心は「幻影と現實のどちらを選びますか」(p.449)という問いに尽くされている。これは現代にあっても容易に答えが出ない問いかもしれない。二次元の女性を「嫁」とすることが、まだ社会に認められてはいないように。

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先月読んだ本。タイトルはあまりにも有名なあの歌。国語教科書にも取り上げられるその歌は、河野裕子の経歴から言えば初期の作にあたる。その後の人生がどうであったか、その時々でどんな歌が作られたか。ともに歌人である二人の生活から歌の背景が実に生々しく見えてくる。非の打ち所のない夫婦とは言えない出来事も時にあるけれど、それもひとつの現実として憧れる。河野の死の前後は読んでいて本当に辛かった。

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今日読んだ本。

①「牛肉と馬鈴薯」
牛肉と馬鈴薯の意味する所はp.9の会話(「しかしビフテキに馬鈴薯はつきものだよ」「そうですとも!理想はすなわち実際のつきものなんだ!馬鈴薯もまるきり無いと困る、しかし馬鈴薯ばかりじゃア全く閉口する!」)に明らか。すなわち理想主義か実際主義かという議論。その中で岡本は「不思議な願いを持っているからそのためにどちらともえ決めないでいます」(p.17)という。その願いは後半に語られるが、実際それは理想か現実かという問題を超越している。願いが遂げられた結果としてどちらかになることはであっても、先ず主義を奉じては願いが遂げられないだろう。「習慣の上に立つ遊戯的研究の上に前提を置きたくない」(p.31)のはそのため。最後に語られる夢の話(p.32)は、願いが遂げられそうな具体例としてただ一つ挙げられるもの。いわゆる「死の人称」(V.ジャンケレヴィッチ)にかかわる問題だが、そのあり方は先立って挙げられた「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」(『論語』里仁篇)とは順序が逆になる。人として生まれ、生きている以上、この願いが遂げられることは無いのではないか。最後の一文に、その諦念は窺える。

②「正直者」
真面目系クズの罪の告白。本人が大して罪を感じていないところがまた憎らしい。冒頭に「私は決して正直な者ではないのです」(p.36)と述べておきながら、告白の後に「正直者の仕事の一つがこれです」(p.53)と結ぶその矛盾は、自身に対する皮肉なのか。そうはいっても、この「正直者」に共感してしまう読者は多いのではないか。かくいう僕も思い当たる節がある。ところで冒頭の「人から重く思われる」(p.36)という言い方、現代の言語感覚からすると一見ネガティブな評価(「重圧」等)に感じられたが、ここではポジティブな評価なのだと後で気づいた。「世におもく思はれ、人にゆるされたり」(『宇津保物語』国譲下)のような「重視」「重要」の意。人物評価における「重い」の謂がネガティブになるのはいつからだろう。

③「女難」
尺八吹きの身の上話。聴くに耐えない「哀音悲調」(p.91)にこめられた「恋の曲、懐旧の情、流転の哀しみ」(同)、これはわかる。しかし「永久の恨み」(同)は、何に対するそれか。本作は部分的に「正直者」のような話を含むけれど、全体としては女性に振り回される側に立つ(と本人が思う)ことが主。あの卜占とそれに従う母の戒めとがなかったら、こうはならなかったのではないかと思う。その意味で女難の原因は、天性(「正直者」)ではなく、「母としてはただ女難を戒めるほかに立身の方法はなかった」(p.70)という、その環境だろう。母や売卜者を恨むのではない。その言葉を受け入れ、母亡き後も自戒しながら女性に対するしかなかった自身の境遇こそ、「恨み」の対象に他なるまい。

④「富岡先生」
展開から言えば、本作は富岡先生の娘・梅子の結婚話。しかし、主題をなすのは梅子と男たちとの関係ではなく、男たちに対する富岡先生の思いの変化。その点、巻末解説の読み(p.126、片岡懋)に全面的に同意したい。

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昨日読んだ本。会社員ウミノと煙草屋の少女サナエとの交流を描いた青春(?)ライトノベル。結末に至る展開や途中で提示された秘密の幾つかは予想通りの結果だったが、奇をてらわないプロットがこの作品の良さなのだろう。それとともに、登場人物が皆まっすぐなことも好印象だった。これを読みながら普段はピース派の自分もハイライトを吸ってみたが、やはりこの味はちょっと苦手。
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