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カトリック宇部・小野田協働体
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カトリック宇部教会、カトリック北若山教会、カトリック高千帆教会の 3つの教会があります。
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カトリック宇部・小野田協働体's posts

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新年度の公開講座「ほんとうの自分になるために」のご案内: 公開講座「マザー・テレサの言葉を読む~ほんとうの自分になるために」 マザー・テレサも、はじめからわたしたちが知っているような「マザー・テレサ」だったわけではありません。貧しい人々に奉仕するためにインドに渡ってから、最初の20年間は学校で社会科の先生をしていたのです。では、マザー・テレサはいつ、わたしたちが知っているようなスラム街の聖女になったのでしょう。それは、彼女が自分の心の中にある、本当の望みに気がついたときです。 本当の望みに気づくとき、わたしたちの「ほんとうの人生」が始まります。マザー・テレサと一緒に、「ほんとうの自分」を探すための旅に出ましょう。 日程 第1回 5月14日(日)「できることが違うだけ」 第2回 6月18日(日)「心の声に耳を傾ける」 第3回 7月9日(日)「祈りの力」 時間 いずれも14:00~17:00 場所 カトリック宇部教会 講師 片柳弘史神父(カトリック宇部教会主任司祭) 参加費 無料 どなたでもお気軽にお立ち寄り下さい。 テキスト 『ほんとうの自分になるために~マザー・テレサに導かれて』(PHP研究所刊、文/片柳弘史、絵/RIE)  ※会場でも販売します。 お問い合わせ カトリック宇部教会 ※ 急に予定が変更になる場合もございますので、行事予定カレンダー もあわせてご利用下さい。 チラシ PDF ダウンロード

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熊本地震復興支援チャリティー オルガンと聖歌による祈りのひととき 開催のご案内: 「主こそわが光~ユスト高山右近列福記念~」 キリシタン大名として有名な高山右近ですが、それ以上のことは案外知られていません。有能な戦国大名で築城の名手、家臣や領民を大切にする領主であり、優れた茶人であり、また家族を大切にした夫、父、祖父でもあった高山右近の生涯は、見事なまでにキリスト者としての信仰に貫かれています。さる2月7日、大阪城ホールで行われた「列福式」において、ユスト高山右近は「福者」に列せられました。 (※「福者」とは、すべてのキリスト教徒の模範になるような、立派な人物のことです。) 今回の「オルガンと聖歌による祈りのひととき」は、右近列福の喜びをたくさんのの皆さんと分かち合えるようにと企画しました。山口サビエル記念聖堂オルガニスト寺岡恵美さんをゲストにお迎えして、本格的なオルガン音楽をお届けします。右近の生涯をたどりながら、みことばと聖歌で祈ります。列福式で歌われた聖歌を、皆さんもご一緒に歌いましょう!右近のゆるキャラ「う~こんどの」も参加決定!「う~こん体操」や記念撮影で盛り上がりましょう!お子様連れ大歓迎です。祈りのひとときが終わったらお抹茶の接待があります。千利休の高弟でもあった茶人右近の生き方と信仰に思いを馳せながらご一服どうぞ。 チラシ PDF ダウンロード 日時 2017年5月28日(日) 内容 9:00~ミサ 10:00~うーこんどのとあそぼう! 11:00~オルガンと聖歌による祈りのひととき「主こそわが光」 12:00~お抹茶接待 場所 カトリック宇部教会 主聖堂 オルガン演奏 寺岡 恵美(山口サビエル記念聖堂オルガニスト) 聖歌 カトリック宇部教会聖歌隊/オルガン奉仕者 参加費 無料/自由献金 熊本地震復興支援活動にご協力をお願いいたします。 お問い合わせ カトリック宇部教会 ※ 小さいお子様連れの方には、親子室をご案内できます。 ※ 出来るだけ近隣の駐車場をご利用ください。

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書籍『ほんとうの自分になるために』PV

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【次のミサ朗読について】復活節第2主日 A年(2017.4.23): 第一朗読『使徒たちの宣教』 使徒言行録 2:42-47 最初の時代の教会の姿が伝えられます。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とありますが、当然ながら「使徒の教え」とは、使徒たちを通して語られた「イエスの教え」のことです。 そして、そのことを学ぶだけではなく実践していたとあります。このように、キリスト者とは、神やキリストや聖霊との密接な交わりを土台に、祈りのうちに神に聞き、実際の行動として具体化させる人と言えます。 その愛と祈り、特に「パンを裂くこと」の集まり、すなわち「ミサ」に、わたしたちも同じような熱心さにならわなければなりません。 第二朗読『使徒ペテロの手紙』 一ペトロ 1:3-9 キリストの復活により、洗礼を通してわたしたちは古い自分(肉の生き方)に死に、聖霊の恵みによって新たに神の子どもとして生まれました。ですから、聖ペトロは、大いに喜ぶように、わたしたちに呼びかけます。お金では買えない大いなる恵みです。 福音朗読『ヨハネによる福音』 ヨハネ 20:19-31 今回の福音朗読では、まず、恐れから家に閉じこもっていた弟子たち、次に、一週間後(八日目)、皆と一緒にいなかったために信じないトマスに、復活のイエスがあらわれます。イエスが呼びかける平和は、弟子たちのあり方を根底から変化させました。新しい創造(創世記2:7)です。 この出来事、また他の弟子たちへの顕現は、受難の時にキリストから逃げた弟子たちに対する、キリストの「いつくしみ」と「あわれみ」が見事にあらわれています。イエスは、自分を裏切った人たちを少しも恨んでいません。 信じなかったトマスに、イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と招かれますが、トマスはそれらを行うことなく「わたしの主、わたしの神よ」と答えます。そんなトマスに、イエスは「見ないのに信じる人は、幸いである。」と諭されました。 「信じる」ことにとって、「見たかどうか」は大事なことではありません。たとえ「見た」としても、「信じない」こともあるからです。むしろ、神の言葉を「聞く」ことが大事なのです。 わたしたちが他人の罪を赦すのは難しいことです。けれども、神から赦された体験によって、また、人を変える力を持つ聖霊(神からの息吹、神の働き)によって可能になるのです。 「ディディモ」はギリシャ語で双子のことなので、二人の自分、つまり、自分の中に「信じる自分」と「信じない自分」がいるというイメージで黙想されれたりもします。わたしたちも、キリストに対する、より深い信頼をいただけるように、切に祈りましょう。 イエスとトマス William Brassey Hole (1900s)

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4月のマリア・カフェ開店のご案内: Cafe Mary へどうぞ 4月22日、1日限定でカトリック宇部教会の信徒会館にカフェが開業します。「いのちのパン」と呼ばれる聖書の言葉や、あたたかなマザー・テレサの言葉で神父がおもてなし。コーヒーの無料サービスもあります。 教会が初めての方、キリスト教徒でない方も、どうぞお気軽にご参加ください。 日時 2017年4月22日(土) 場所 カトリック宇部教会 信徒会館 Menu 10:00~10:45 神父さんのお話 10:45~12:00 神父さんを囲んで質問やおしゃべり 参加費 無料 お問い合わせ カトリック宇部教会 チラシ PDF ダウンロード

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【次のミサ朗読について】復活の主日(2017.4.16): 第一朗読『使徒たちの宣教』 使徒言行録 10:34a、37-43 ご復活は、一年のうちで最高の祝日です。結局、わたしたちの信仰は、キリストの復活にかかっています。 ペトロの説教(パウロも同様)は、キリストの復活から始まりますが、使徒たちにとって、空っぽであったイエスの墓の出来事は、信仰の始まりと基礎です。そして、使徒たちは「ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事」の背後に、神の働きを見ています。 第二朗読『使徒パウロのコロサイの教会への手紙』 コロサイ 3:1-4 洗礼を受けて、キリストと共にこの世に死んで、キリストの命にあずかったのなら、「上にあるものに心を留め」、出来事の背後にある神の働きを見ることができるはずです。 「隠されている」と訳された言葉は、「護(まも)られている」という意味も含まれています。「地上のものに心を引かれない」生き方は、この世の価値観から見れば、愚かで哀れな姿かもしれませんが、キリストがあらわれるとき、キリストと共に栄光に包まれるのです。 福音朗読『ヨハネによる福音』 ヨハネ 20:1-9 墓の中の状況など、目撃者が書いたかのように詳細に描かれているため、「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」とは使徒ヨハネのことだとされていますが、歴史上の誰かではなく、弟子の理想像として描かれているという考え方もあります。 弟子たちは、イエスとの関わりを終わらせようとはしていません。しかし、その関わりは未来に開かれたものではなく、十字架で息を引き取られるまでの過去のイエスとの思い出の中に生きる後ろ向きのものです。未来に希望を失い、墓や遺体を頼りにする姿です。 ペトロとそのもう一人の弟子は「イエスは必ず死者の中から復活されることになっている」という聖書の言葉を、まだ理解できずに墓に行きましたが、「見て、信じた。」と書かれています。「見て、信じた。」の「見る」という言葉は、原文では「石が取りのけてあるのを見た。」や「亜麻布が置いてあるのを見た。」の「見る」とは違う言葉が使われています。この言葉は、最後の晩餐で「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(ヨハネ16:16)の「見るようになる」でも使われており、洞察する(見通す)という意味合いを含んでいます。 肉体の器官である眼で物事を見て観察しても、その意味を理解できるとは限りません。表面的な物事の背後を洞察し見通す心の眼が、その出来事の本当の意味を明らかにするのです。そのようにして、イエスの出来事の背後にある神の働きを見て悟るなら、地上に生きながらも地上のものに心を引かれず、上にあるものを求めて生きることができるはずです。 空の墓 William Brassey Hole (1900s)

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【次のミサ朗読について】受難の主日/枝の主日 A年(2017.4.9): 第一朗読『イザヤの預言』 イザヤ 50:4−7 わたしたちが、苦しみを担うことができるのは、神に心を開いて、御心を聞き、弟子として従うときです。そのとき、苦しみを意味あるものとして担う力が与えられます。 救い主は、預言者イザヤを通して、神の計画に聞き従って受難を受ける決心をなさいます。 第二朗読『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』 フィリピ 2:6−11 神であるキリストは、神としての栄光を捨てて人間となっただけではなく、十字架の死を受けるまでへりくだったと聖パウロは教えます。 神は、「自分を無に(空っぽに)」したキリストに「あらゆる名にまさる名」をお与えになります。また、神は、「十字架の死に至るまで」へりくだった(身を低くした)キリストを「高く上げ」られます。このように、神とキリストは、協力して働かれました。その結果として、すべてのものが、真に礼拝すべきものに出会えたのです。 その驚くべきことを悟るように聞きながら祈りましょう。 受難の朗読『マタイによる主イエス・キリストの受難』 マタイ 27:11−54 イエスは「王」ですが、この世の権力をふるうような「王」ではなく、神の救いを実現させるための「王」です。 ピラトにも、弟子にさえ見放されたイエスがなぜ「王」なのかわかりません。人々は、荒れ野で悪魔がイエスを試みたとき(マタイ4:1-11)のように「神の子なら...十字架から降りて来い」とからかいます。 祭司長たちも、イエスを侮辱して「イスラエルの王」と呼びます。彼らにとって「神の子」とは、十字架から降りて自分を救うことのできる者のことで、十字架こそ、イエスが「神の子」ではない証拠なのです。 イエスをののしる人々とは対象的に、ユダヤ人ではない百人隊長や兵士たちがまず、「本当に、この人は神の子だった。」と、イエスが「神の子」であることを理解しました。 現在、多くの人々が十字架を胸に下げています。さらに多くの人が、十字架上で死んだイエスを「神の子」として信じています。信じるだけでなく、イエスの教えを熱心に実行する者は数え切れません。恥ずべき処刑道具であった十字架は、愛のしるしとなりました。ほとんどの国の勲章は、十字架の形をとっています。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」は、詩編22の最初のことばで、この恐ろしい苦しみの中での祈りは、信頼あふれる祈りに変わり、その結果として平和に満たされることばが続いています。 また、エルサレム入場の後、死が近づいていることを知ったイエスは、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12:24)とも言われています。 イエスの死 William Brassey Hole (1900s)

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【次のミサ朗読について】四旬節第5主日 A年(2017.4.2): 第一朗読『エゼキエルの預言』 エゼキエル 37:12−14 バビロン捕囚で捕虜として連行されたイスラエル人が聖地に戻ることは、枯れた骨が墓から蘇るようなことでした。そのことを、神はエゼキエルを通して示されます。 けれども、その中に、もうひとつの意味も含まれています。つまり、わたしたちが信じている、死からの完全な解放ということです。 第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』 ローマ 8:8−11 死者の復活の信仰を、聖パウロは、わたしたちに宣言します。誰にも肉体の死を避けることはできませんが、キリストにならって神に信頼して生きるならば、わたしたち人間の理解を超えて「死ぬはずの体をも生かして」いただけるのです。信仰をもって、その言葉を聞きましょう。 福音朗読『ヨハネによる福音』 ヨハネ 11:1−45 または 11:3−7、17、20−27、33b−45 四旬節第3主日から、神の恵みのしるしとして、それぞれ「水」と「光」がミサのテーマでした。今回は、より深い意味のしるし、「命」がテーマです。この出来事は「ラザロの復活」と表現されますが、イエスの復活は、このような死者の蘇生とはまったく次元の違うものです。 この奇跡が事実であることは、とくにはっきりしています。場所は、エルサレムから2キロしか離れていないベタニアという町で、今でもその墓が残っています。そして、ラザロの姉妹マルタとマリアを慰めようと、多くのユダヤ人たちが来ていました。すでにラザロが死んで墓に葬られて四日がたっていましたから、イエスが墓石を取りのけるように言われると、マルタは死臭を恐れます。しかし、イエスは群衆の目の前でラザロを生き返らせました。 目撃した人の話を聞いた祭司長たちとファリサイ派の人々は、「この男は多くのしるし(奇跡)を行っているが、どうすればよいか。」と相談し、「イエスを殺そう」と決めています(ヨハネ11:47-53)。つまり、イエスの奇跡を否定しようとしていた人々さえも、結局はその奇跡が本物であると認めざるをえなかったのです。 イエスは、ラザロを生き返らせることによって、人間の苦しみに無関心ではない神の愛を人々に示し、神の栄光をあらわしました。人間にとって絶望と悲しみをもたらすものでしかない「死」は、イエスにとっては「神の栄光のため」の出来事なのです。「興奮して」とありますが、イエスには、ラザロを生き返らせることが、自分自身の死を招くことになるとわかっていたのです。 神とイエスとの交わりは、それを知った人が加わることのできる開かれた交わりです。「イエスを信じた」とありますが、彼らはイエスの行為というより、イエスに信頼し、イエスを通して働かれる神を信じたのです。 ラザロの復活 William Brassey Hole (1900s)

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【次のミサ朗読について】四旬節第4主日 A年(2017.3.26): 第一朗読『サムエル記』 サムエル上 16:1b、6-7、10-13a 長男が尊重される当時の社会にあって、最後の者であるダビデに油は注がれ、神によってイスラエルの王に選ばれます。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」とあるように、神の選びは人間の行う評価とは違います。 わたしたちも洗礼のとき、また堅信を受けたときに油を注がれ、「王の司祭職」をいただいたことを、この朗読を聞きながら思い出しましょう。 第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』 エフェソ 5:8-14 神から離れていることは、暗闇の中を歩いているということです。キリストは、わたしたちが心の暗闇を歩かないように、心に光を与えて下さいます。 福音朗読『ヨハネによる福音』 ヨハネ 9:1-41 または 9:1、6-9、13-17、34-38 イエスは、生まれつき目が見えないのは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と、それぞれが生まれながらに持つ不完全さは、罪ではないとおっしゃいます。 この奇跡の特徴は、イエスの敵であったファリサイ派の人々が否定しようと思って詳しく調べたことです。まず、実際に生まれつき目が見えなかったかどうかを調べました。本人の主張では満足せず、その人の親にも聞いています。結局、奇跡を否定することができなかったファリサイ派の人々は、彼にうその証言を迫ります。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」という言葉は、「奇跡を行った神に感謝しなさい。罪人であるイエスの奇跡ではないと証言しなさい」という意味があったようです。 知識や常識にこだわるファリサイ派の人々は、神の業は見ることができず、労働が禁止されている安息日に癒やしを行ったということだけで、イエスを罪人だと断定しました。しかし、見えるようになった盲人は遣わされたものとなり、会堂からの追放も恐れずに、「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」と主張します。 癒やされた盲人のイエスに対する理解は、「あの方」からはじまり、「預言者」、そして「神のもとから来られた」と変わり、最後には「主よ」ということばで信仰を告白するに至ったのです。 わたしたちも、罪を否定しようとするあまり、他人の罪を正そうとすることばかり考えて自分の罪に気づくことがおろそかになり、かえって自分が罪の中に留まってしまうという結果になってしまうことがないでしょうか。罪は、神に癒やしていただくべきもので、そのことによって神の栄光を世にあらわすこともできます。しかし、世間体を気にしたり、傲慢になったりして、自分は完全なものだと振る舞うならば、癒やすために来られたイエスを拒むことになります。このような頑なさこそが「罪」なのです。 サムエルとダビデ William Brassey Hole (1900s)
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